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創作物が必要な理由。

初めましての方もそうでない方も、こんにちは。
株式会社LOCKER ROOMでプロデューサーやシナリオライター、編集をやっています、比暮ななみです。

先日、はじめて文学フリマに出店いたしました。
今回から有料で入場になった文学フリマ東京ですが、すごい来場者の数でびっくりしました。
ありがたいことに、刷ったものは全て売り切れ、すごく良い経験をさせていただきました。
手にとっていただいた皆さま、本当ありがとうございました。

いろんな方から実は欲しかったと言っていただけたので、実はkindleに出してみました。(宣伝)
優しい方はぜひ読んでみてください……!!

宣伝はここまでにしておき……
今日は初めて、シナリオレッスンではないことを書こうと思います。

今回のテーマは「創作物が必要な理由」ということで、自分が創作物をなぜ必要としてるのかなど、最近摂取した創作物を踏まえてお話できたらな、と思います。

最近摂取した創作物たち

最近見て、心にグウんとなった映画を紹介します。

『ヤンヤン 夏の思い出』

引用:早稲田松竹 過去上映ページ


出ました。エドワード・ヤンです。ヤンヤンです。
エドワード・ヤンと出会ったのは高校生のとき。
『牯嶺街少年殺人事件』を見て、三時間座ってケツを痛めた報酬がここには、しかと存在する、と強く思いました。

とにかく映像の綺麗さ、カメラワークもさることながら、私は言葉の良さに喉元が熱くなっていたのを記憶しています。

そんなエドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い出』が毎年恒例早稲田松竹で上映されたので、見にいきました。
二回目です。
でも、一度見たものなのに、一度見た時とは違う登場人物に感情移入をしました。

この作品は、家族、その周りをコンパスでぐるりと回した人物全ての群像劇です。家族だけではなく、いろんな人のいろんな話が混ざっています。

私は最初に見た時、娘に感情移入をしました。
好きになった男の子に裏切られる気持ち。ずっと夢であればいいのにとおばあちゃんに話すセリフ、全てに胸が痛みました。

けれど今回は、その娘のお父さんであるNJに感情移入をしてしまいました。
お父さんは妻がおりながら、初恋と再会を果たしてしまいます。
(何年ぶりにだっけ……2,30年ぶりくらいだった気がします)
初恋相手はまだNJに好意を持っているらしく、NJの日本への出張で共に時間を過ごすことになります。
二人は過ぎ去っていった青春時代を取り戻すかのようにデートを重ねますが、やはりうまくいきません。初恋相手は、NJに何も言わずに去ってしまいます。
ここから、一度過去でダメだったことをやり直しても、それは同じ結果になることをNJは学ぶのです。

お父さん同様に、思い出ってすごくいいことばかり残るな、と最近思うのです。当時は辛かったことも、なんだかいいように思えてしまう。

人間の脳って単純でバカらしい。
思い出は美化されるものなんです、と彼女と別れた先輩に偉そうに言った自分ことを思い出しました。

今、私が初恋相手にあったら、どうなってしまうだろう、と深く考えました。思い出の初恋相手は、とんでもなく淡く、優しく、輝いて見えるけれど、結局それは美化されたものだと気づくと思うのです。
でも、美化されたものだと気づく時、すんごくしんどくないですか?
心の中の美しいものが、ガラスのようにパリンと割れていく感覚。
だから美化された思い出は、やっぱり手繰り寄せないでおこう、と思わされました。

大人に見ていただきたい映画なので、まだ見ていない人はぜひ。


『影裏』

映画『影裏』オフィシャルサイト


恥ずかしながら原作を読んでないのですが、うーん、文學界新人賞原作で綾野剛×松田龍平の掛け合わせでハズレな予感はしないぞ、と見ました。

松田龍平演じる日浅と、綾野剛演じる今野。
二人は岩手の土地で出会います。

片思い、悲しみを抱く男を演じさせて、綾野剛の右に出る人はいないんじゃないか、とやはり思いました。
彼、何度も傷ついた目をずっとできるんです。
ずっと傷ついて、今にも泣きそうな目で松田龍平を見ているんです。
何もされたわけじゃないのに、ずっと泣きそうな目で。
それが恋じゃないか、本当に、と思わされる目。

お二人の演技はもちろん良かったのですが、
以下の作中のセリフが特段に好きでした。

「人を見るときは裏側、影の一番濃い所を見るんだ」

いつもくだらないことばかり言う日浅が急に真理みたいなことを説教じみながら話すのです。

日浅はその言葉通り、とても濃い影を持っている人で、今野はそれに全く気付けておらず、自分のロマンチックに勝手に組み込んでは満たしていたんです。

人を見るとき、日浅のように常に誰にも言えない裏側があるんじゃないかと想像してしまう癖が私にはあります。
でも、意外とそうではないことが多くって。いつも裏切られるんです。
この人は全然、影ができないんだ。真上に太陽がある人生なんだって。
それと同じくらいに、「この人の影は濃くないだろう」と思った人に限って、不透明度が100%に近い影を持っていたりするんです。それも大きな。
どちらの事象に遭っても、なんだかぐったりしてしまう。

自分の環境はホームレスでもないし、五体満足だし、家族もいるし、恵まれている方だと思いつつ、
やっぱり誰にも口が裂けても言いにくいことはいくつかあって、特定の人にしか言えないこともあって、影はあるわけです。
でも、誰も影なんて見てくれなくて、影は社会には不必要とされるもので。

そう言うもんもんとした気持ちを色々抱かさせてくれる大変良い作品でした。


私に創作物が必要な理由

上記の2作品は映画でしたが、他にも小説もたくさん読みました。
とにかく、時間が空いたら、何かを映画か小説か、ドラマか。そんなものたちを摂取したくなるのです。
というか、何も摂取しないままか、何も書かないまま毎日が終わることがもはや恐怖なんです。
昨日の垢が着いたまま眠る感覚で、死ぬまでは有限なのに、摂取しないものばかりで死にたくないな、とか。何も残らないまま消えてくんだとか。

あとは、感情のはけ口としても使ってます。
社会に生きてると、自分がどんどんピエロになっている感覚に襲われる。
本当は5歳児なはずなのに。あれ、本当の私って何考えてんだっけ、みたいに不安になる。
本当の私はすぐに泣くしすぐに笑うし、すぐに怒るんですよ、でもそうやって直ぐに感情を出す人間は浅はかで扱いにくいとされてく社会に削がれていきました。
でも、そんなのを関係なしに元の感情を出してくれるのが、私にとって小説や映画だなぁと。
上記でご紹介したヤンヤンも影裏も、すぐに喉元が熱くなったり、目が潤んだり、哀れんだり、我が心に感情ありとなれたのが良かったです。

色々と振り返って、やっぱり私は創作物を摂取しないと、ある意味での''死''が訪れるなと思います。

けれど、自分がなぜこんなに創作物がないと''死''を迎える人生なのか、やっぱりはっきりとは説明できないなと思っています。
これだ!という言葉が出ないな、という感じです。

でも、太宰治の言葉で、すごいハッとそれが輪郭を帯びたのです。

「本を読まないということは、その人が孤独でないといふ証拠である」(太宰治)

これは例えば、本でなくてもいいと思うんです。ゲームでも漫画でも。
ただ、何かに縋ると言うのは、それはその人が孤独だからだと思うんです。
でも、そのすがる先が人間では無いのがポイントなのかもしれないとも思います。人間に縋れて、人間で心が浄化される人間には、元来こういった小説や映画などは必要ではないし、やはりそれは羨ましくもあると思います。

最近は「自立」がとても敬われる世界ですが、私は一生自立ができません。
人という字は人と人が支え合って生きてる様子だと金八先生は言ったけれど、私の場合は、私と本と映画、漫画と支え合ってやっと自立してるんだと思います。

誰かのそんな存在になれる作品を、このLOCKER ROOMから生み出せればいいなと思っております。
これからまだまだ伸びていく縦スクロールの世界で、そんな役割を目指して、頑張っていけたら本望です……!!!



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