私はただ岩鳶のトンビのままでいたかった…。「劇場版 Free!-the Final Stroke-」後編にみる、作品性とファンムービーの境界線のゆらぎと違和感
2013年のTVシリーズから始まって、実に足かけ9年に渡って展開されてきたFree!シリーズ。
かくいう私は2014年放送の『Free!-Eternal Summer-』からだったので約8年となる訳ですが、その間、映像はもちろん、グッズも買ったし鳥取で聖地巡りもしたりと、ファンの端くれとして己の人生の傍らにFree!シリーズのある人生を8年続けてきたんですよね。振り返ればもう8年。もし人間相手だったら、そんなに長く付き合える相手って超貴重だし心の支えでもある。
そんな訳で、今回の「劇場版 Free!-the Final Stroke-」後編は、シリーズの集大成ということですっごく楽しみにしていたのです。
しかも昨年9月に公開された前編が私好みの構成だったことも大きい。
適度に絶妙に各キャラのファンサービス的なシーンをこれでもかと盛り込みつつも、話の筋はしっかり構築されていてすごく見やすかった前編。
本筋的には水泳の世界大会に出場するも世界の壁…というか、100年に1人の逸材ともいえる超人的な泳ぎをするアルベルトの泳ぎに圧倒されちゃって、自分の泳ぎを見失い、しかも仲間として一緒にいたい凛はプロ宣言で独り立ちすべくバッタに専念すると言いきっちゃうしで、すっかり闇落ちというか深い深い海底に落ちてしまった七瀬遙くん。…てのが前編のラストだったものだから、後半はそこからどう復活するんだろう? 遙もこの荒波にもまれて少しは成長するのかしら? と、勝手に過大に期待してしまっていたのだ。
そんな気持ちで今回の後編を全集中!して観たら、ものすごく心身ともに消耗してしまって。
なんで観終わった後こんなに疲れたのか自問自答してみたんだけど、やっぱり鑑賞後の爽快感よりもおよそ2時間、かなり集中して観ながら違和感を自分の中に腹落ちさせることに必死になってしまったからなのだと思う。
そう、私は「劇場版 Free!-the Final Stroke-」後編に、なぜかすごく違和感を抱いてしまったのだ。
その気持ちは1週間はひきづっていて、翌週に2度目の鑑賞をして、少し客観的に見直すことができてようやっと自分の中で解答を見出せたものの、やっぱり私が初見時に抱いた違和感はなかなか消化できなくて今に至る。
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※以下、ネタバレしまくりなので未鑑賞の方はご注意ください。
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私が抱いてしまった違和感は3つ。
①「問題解決がドラマではなく自己解決で、ここは寺か?な禅問答」
②「リレー選手って言ったもん勝ち?世の中そんなに上手くいくかいな」
③「作品性をとるかファンムービーをとるか…売上も絡むし悩ましそうなオトナ世界の片鱗への興醒め」
てな訳で、以下は私自身の腹落ちするための再認識すべくな文章なので、今回の後編を全面的に支持している方は読むのをご遠慮いただけるとお互い平和かなと思うので、なにとぞご容赦いただきたい次第です。
①「問題解決がドラマではなく自己解決で、ここは寺か?な禅問答」
闇落ちというか自分の泳ぎが分からなくなっちゃった主人公の七瀬遙ことハルちゃん。その解決方法がドラマを通じてというよりもまるで禅問答のような自問自答で引き出した…というのは、1つの方向性としては全然アリだと思う。ハリウッド映画じゃやらないと思うけど、フランス映画とか文芸映画なら良く見る手法だし。その方向性を選ぶあたりが京都アニメーションぽいなとさえ思う。
開始早々から遙の夢の中で過去を再構築して自己認識し始めた瞬間、「なるほど今回はドラマを見せるつもりはないのか。遙にとっての泳ぎとは何かを問う概念の映画なのだな」と分かったので、早々に居住まいを整え、観方を変えて大画面に向き合うことができたので、最終的に遙自身の心が浮上できて良かったね!という心境でしかない。
それに自分自身の問題は結局のところ自分自身でしか解決できないってことは、ミハイルも凛ちゃんに言っていたし。まさにそれな!と思うので納得でしかない。
それなのに違和感を感じてしまったのは、自己解決に全集中の主人公に対して、周りが異常なほどに過保護だってこと。
あの高校時代までいろいろと噛みついていた宗介ですら優しい。
誰も彼もが真綿のように周りを包んでいるだけの世界。
なんでやねん!?
もうちょっと喝入れてやらんかい!
てか、そんな甘えたままならもう出場しなくて良くない?
と、哀しいかな、清濁あわせ飲んですっかりしなびた大人になった私には、遙への皆の気遣いがイマイチ分からないというか気持ち悪く見えてしまったのだ。
まぁ、初見後、今までのシリーズをネットで復習したり映画「ハイスピード」を見直したりして、遙の周りの人々は彼の泳ぎに魅入られてしまったから英雄視しており、自分の代わりに世界で泳ぐ未来を託しちゃってるからこそ、ある意味、盲目的になっちゃってんだなぁと理解はできた。
でもそれって、遙にとっては勝手に祭り上げられたヒーローでしかないのではないだろうか。
みんなハル、ハル言ってるけど、彼の真の孤独を汲み取ることはできないのではないか。
その悲劇性が1つ目のモヤモヤの正体だった。
とはいえその悲劇性こそが七瀬遙を主人公にできた要因だし、ヒーロー性なのかなとも思う。
だから彼は結局のところ、一人で戦い、一人で立ち上がるしかなかったのだ。
ただその過程は、彼が今まで築いてきた人々との関係性や経験あってこそなので、遙の周りの人々は彼を孤独に頂点に持ち上げつつも、間接的に彼を救っていたことも事実。
なんかその辺をもうちょっと客観的な視点で3カ所くらい入れてくれたら、かつては柔らかかったハズなのに鋼の心臓ばりにカッチカチに固まってしまった私の感性でも初見で理解まではいかなくとも感じることはできたかもしれない。
そういう意味で、作品としてはやっぱり説明不足だし。
「七瀬遙は泳ぎの天才である」
ということを世の理と同等に当然当たり前の事実として説明を端折ってしまっているのがモヤる。
世界的スイマーとして求められる存在だってこと、身内の贔屓目だけじゃなくて、第三者視点でもうちょっと見せて欲しかった。
②「リレー選手って言ったもん勝ち?世の中そんなに上手くいくかいな」
お話のセオリーとして、自分自身の存在が揺らいで闇落ちした主人公が自分を取り戻して復活を遂げる…というのはとても全うでカタルシスを感じるものである。
そういう意味では最終的に遙が自分らしい泳ぎを、しかもみんなとの絆の証であるリレーで証明できたことは喜ばしい。
でもなぁ、その過程というか、リレー選手の選抜方法がいただけない。
金城以外はみんな同世代の鳥取出身者ってどんだけ~~~である。
しかも金城もイトコを通じて間接的に岩鳶と関係ある人物だし。
かつ予選と本選で選出を代えることが勢いだけの選抜のように見えてリスキーそうに思えちゃうのがモヤる。
遙を本選のフリーで登板させたいがためだけの選抜なんじゃないのと見えちゃうのがものすごくモヤる。
いやまぁ、仲間の特に遙と関わりの深いメンバーにとってみたらまさにそういう気持ちなんだろうなとは思う。
でもさぁ、世界大会ですよ? 日本の代表な訳ですよ?
結果がすべてとは言わないけれど、スポーツで勝ち負け決める大会なんだから、勝つための理由がちゃんと欲しい訳。なんとなくじゃなくてしっかり理論的、客観的に七瀬遙をリレー本選の選出にして良いと思える重要性、必然性をもうちょっと見せて欲しかったの。
仲間だけでなくて、ちゃんとオトナの世界でも彼は重要視されていて求められている存在なのだって、3カットで良いから入れて欲しかったの。
じゃないと、世の中そんなに甘くないよね…と思っちゃう訳ですよ。
せっかく日本選手団の監督やその周りの主要スタッフ出すなら、彼らにもちゃんと認められたうえで選抜して欲しかったなぁ…というのが正直な気持ち。
リレー選抜で遙が推薦された時に反対するスタッフが余計だよね。あれで一気に気持ちが覚めちゃった。オトナ視点の現実を感じさせちゃった。
今、日本で100m短距離のフリーで最大のポテンシャルを持っているのが七瀬遙であること、3回くらい客観的に言ってくれないと信憑性が持てないのよ。尺の都合かもしれないけれど、七瀬遙は選ばれて当然、というあの身内びいきな空気感が、分かって当然だよね?という甘えにしか見えなくて気持ちが覚めちゃう。
そもそもリレーするにあたって
「七瀬遙は100mフリーでは今一番、日本で速くアルベルトと対抗できるポテンシャルがある」
「メドレーリレーは100mで一番良い記録を持っている、または大会当日、一番良いコンディションな選手が望ましい」
「本選で優勝を狙うなら選手個々の体力の限界を把握したうえで、場合によっては予選と本選でメンバー入れ替えて上手く配置するのも戦略の1つ」
ってことを、身内じゃなくてこの世界の第三者視点で示して欲しかった。
(私が見落としてるだけかもしれないけど、日本選手団の監督になあなあなセリフじゃなくてピシッと言って欲しかった)
③「作品性をとるかファンムービーをとるか…売上も絡むし悩ましそうなオトナ世界の片鱗への興醒め」
②を踏まえて改めて実感してしまったのが今回の「劇場版 Free!-the Final Stroke-」は作品性を持ちつつもファンムービーに強引に寄せようとしてしまった感が否めない。そのアンバランスさがエンディング近辺の演出で露呈してしまって気持ち悪い。
連休に改めて映画「ハイスピード」を見直してみたけれど、1つの作品としてかなり良くまとまっていたなぁと再認識。
それは中学1年生のある一瞬だけを切り出した物語に終始していて、思春期の不安定さと泳ぎの不安定さが実に上手くシンクロしていたからだと思う。
その過程がとても丁寧に美しい映像で紡がれていたので作品としての完成度が高い。
とはえいFree!シリーズって、もともとはTVアニメで、作品性もあるけれどファンサも多くて娯楽作品感が強いもんだったな…ということも改めて思い出した。
ちなみに2017年に公開された特別版 Free!-Take Your Marks-」は完全新作だったけど、ファンサ山盛りでストーリー性よりキャラクターたちの関係性に重きを置いたファンムービーだった。
Free!シリーズのキャラクターたちを愛する身として、彼らの楽しい青春の一幕を垣間見られることはファン冥利に尽きたので、あれはあれで良き良きだった。
それでは今回の完全新作「劇場版 Free!-the Final Stroke-」はというと、シリーズの集大成ということでファンからも関係各所からも期待されすぎちゃったのがツラい。特に後編はまさに遙の境遇と一緒。
今回の新作は、本人望むと望まざる周りの期待の大きさで世界の舞台に押し上げられちゃった主人公が主軸で、かつ世界大会というどうしてもオトナの世界に片足突っ込み始めてしまったが故に、ファンムービーにしてしまったら温いお遊戯会になってしまうし、キャッキャ楽しいだけのファンムービーだとファンに媚びてるだけじゃない?作品としての集大成になってないんじゃない?作品としての何らかの回答を出さないと…という圧が寧ろ出てしまう可能性もある。
かといって作品性として世界に挑む天才肌の主人公の懊悩に徹してしまったら、作品性は高くなっても、ストイックすぎて登場人物もかなり絞られてしまい、正直、遙と凛以外を推すファンにとっては見る動機が半減しそうだし、「それFree!でやる必要ある?」というところまで描かないと本来はまとまらない危険性があったのではないかと思う。
そんな両極端のベクトルにひっぱられながらも、なんとか着地点を見出して描き切ったのは河浪監督の力量が大きい。
う~ん、でもだからこそ、ちょっとでもバランスを崩すと違和感を抱いてしまうのだ。
個人的にエンディング直前の女の子の登場はいらんかったし、エンディングの演出は賛否両論あるだろうけど私的には全然良くなかった。
渋谷の街でハルちゃんが大写しになっている企業企業広告を見上げる女の子。
初見で観た時は原案「ハイスピード」に出てきた幼馴染の女の子かな?と思ったりもしたのだが、一緒に観た友だちがファンの子を象徴していると言っていてなるほど…と思ったものだ。
ファン代表で1人の女の子を出したのだとしたら、それは悪手ではなかろうか。
だってファンの一人である私はあんなに可愛くも若くもないもん(笑)
それにカート?らしき大荷物を引っ張ってるってのがテンプレなオタク女子みたいでなんかヤダ(笑)
たくさんいるファンの1人という表現だとしても、1人を描いてしまったことで、私たちファンは明らかに郁也とニアミスした彼女にはなりえない次元の壁を感じてしまったのだから。
Free!シリーズの絶妙に良かったところは、現実のようで現実ではない良質なフィクション世界…だったのではないかと思う。
地名も岩美ではなく岩鳶と、明らかに鳥取県岩美町をモチーフにしてるよねと分からせたうえで、でも地名は絶対代えることで似て非なるパラレルワールド感を出していたところだと思う。
だから、聖地巡礼で岩美に行っても、現実の岩美の風景を見ながらも脳内フィルターで岩鳶に想いを馳せることができた訳で、自分のいる現実にはいないけれでも、でもすごく近しいパラレルワールドに彼らはいるかもしれない…という二次元と三次元を超えた高度な遊びをすることができたのだ。
なのになぜ、現実を入れようとしてしまったのか?
そしてエンディングでなぜファンへの感謝のメッセージを入れてしまったのか?
そしてあのエンディングの演出が、一気に興ざめしてしまう。
歴代の版権イラストが次々と登場することで、Free!の9年に渡る軌跡を感じさせる演出だというのは分かる。
でも、エンディングの後に、遙や凛のその後にけっこうな尺を要して描くのであれば、あのタイミングで入るエンディングの演出としてはもっと別の方法があったのではなかろうか。
演出意図としては、エンディング直前のファンを代表する女の子と、エンディングで過去の版権絵シリーズを通じて9年の軌跡を感じさせることで、エンディング後の遙たちが目指す未来に私たちをも連れていこうとしてくれたのかなと思う。
その気持ちは大変ありがたいし。
監督やプロデューサーはじめFree!関係者がファンを大切にしてくれた1つの心意気なのかとは思う。
でもなぁ、版権絵ってのがいただけない。
だってそこには作品性はないもの。
雑誌側のオーダーやパッケージ売るための商売気で脚色したファンサ的な、ある種の媚びで彩られた絵なんだもの。
いやまぁ、確かに好きな版権もたくさんありましたさ!
でもそれって、作品を支えたファンが作品の外側で愉しむ用のご褒美要素の高い絵が多い訳で。
それがなんだか、密に楽しんでいた性癖を大画面で露出させられたようでものすごく恥ずかしい。
どんな羞恥プレイかなと思っちゃう。
こんな絵、好きでしょ?ホレホレ~~と、突き出されたような気持ちでいたたまれない。
できればエンディングはあのタイミングで挿し込むのであれば、七瀬遙を今まで支えたさまざまな人々の日常や未来につながるシーンを入れて欲しかった…。
遙を支えるみんなそれぞれに大切な人生が日常あるんだよということを感じさせるような、止絵で良いからそういうのを入れて欲しかった…。
もしくは今までの本編映像の再編集でも全然良かったのに。
なんなら前編の時のような水面だけでもいっそ良かったのに。
監督もプロデューサーもファンの存在を強く汲みすぎてしまったが故に、作品性とファンムービーのバランスを最後の最後で大きく崩してきてしまったのが切ない。
8年前からFree!の世界を愛していた私は、だからこそ、今回の映画を観て強く思ってしまったのだ。
「岩鳶のトンビのままでいたかった…」と。
あの岩鳶の空を舞うトンビのように、そっと遠くから、でも時々はすぐ傍にまで近寄って、彼らの生きざまを垣間見たいだけだったのだ。
岩鳶の美しい風景と一緒に美しい青春の一刻だけを切り出して綺麗な箱に閉じ込めた世界。
ただそれを現実の寒さに震えながらも硝子越しに眺めているだけで良かったのだ。
なのに、あの女の子の登場のせいで、私はトンビではなく人間になってしまった。
美しい岩鳶を見下ろすのではなく、届かない世界を渋谷の交差点で見上げるような存在になってしまったのだと強く思わせられてしまったのだ。
多分、「劇場版 Free!-the Final Stroke-」を10代~20代で観たら、こんな気持ちにはならなかったろう。
その年代の私には未来しかなかったのだから。
けれども、この8年を経てすっかり良くも悪くも年齢的にだけでなく精神的にオトナになってしまった私には、現実とフィクションが近づきすぎることで現実の澱の汚さに美しいフィクションが飲み込まれてしまうことに危機感と悲壮感を抱いてしまうのだ。
それは私がもうかつての自分が抱いていた夢が叶えられないことを知ってしまったからでもある。
それはあくまで私自身のプライベートな話なので、作品には関係ないのだけれど。
でも、作品は受け手を通じてその受け手の心に届く以上、受け手のコンディションで良くも悪くも捉え方が千差万別なのだと、今回の「劇場版 Free!-the Final Stroke-」後編の鑑賞を通じて改めて実感したのだった。
ということで、私自身が抱えたモヤモヤを言葉の澱としてここに吐き出すことができて、ようやっと自分自身を客観視する余裕を見出すことができた。
そして改めて、今回の「劇場版 Free!-the Final Stroke-」は、まさにFree!シリーズの集大成だったのだと思う。
だって、最初はTVシリーズだけの企画だったろうに、いい感じに人気が出てシリーズ化して、それなりの収益あげてまた続編作ってって流れは、まさに岩鳶の小さな世界で自由気ままに泳いでいたハルちゃんが、世の中に引っ張り出されていろんな人の期待を背負って泳ぎ続けならくてはならない状況とすごく似ている。
そっかぁ、ファンである私たちの期待を一身に背負って、9年間よく頑張った!
けれど、遙の限界と同じく、シリーズとしての限界も来ちゃったんだね。
だから今は最後に見せてくれた最高の景色に感謝して、ゆっくり休養して欲しい。
そして私自身もまた、一区切りをつけようではないか。
きっとまた10年後くらいに見返したら、その頃はセミリタイアで第2の人生を歩み始めているであろう私は、逆に新たな人生を構築すべく10代の頃のような無邪気さを取り戻しながらも半世紀生きた老練さも相まって余裕と慈愛で味わうことができるんではなかろうか。
その時までは今しばらくはまた距離を置くしかない。
宗介と凛のように時間が解決する絆だってあるし!
「劇場版 Free!-the Final Stroke-」は、私自身のFree!シリーズの卒業式であり、新たな旅立ちのエールだったのだ。
このエールを胸に明日からまた現実世界をがんばっていこうではないか!
そう思える作品を超えた人生を支えるシリーズに8年間お世話になったことに今はただ最大の感謝を…‼
(ということであと何回か鑑賞して後、Blu-rayも買います)