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「また」という言葉には覚悟が要る
「また連絡するね」
絶対に信じてはいけない言葉の代表格。私が社交辞令を嫌う理由のひとつでもある。
こう返してきた上で本当に連絡してきた人を、私は手で数えられるぐらいしか知らない。それぐらい「また」なんてない言葉だ。
ある程度信頼のおける人なら1~2回程度であれば別に気にならない。そんな時もあるだろうなとわかるからだ。でもそれが何回も続くと、さすがに相手への信頼も損なわれていく。
勇気を出して誘っても、「お前なんてどうでもいいんだよ」「いや、お前じゃねーよ」「誘ってくんな」も同然な通告を、呼吸をするかのように多くの人は返す。
そもそも、「また」という言葉の時点で怪しい。
「また会ったら」
「また行こうね」
「また〇〇した時に」
そもそも「また」ってなんだよと。
「また」なんてあるのかよ。
これが最後になるかもしれないのになに言ってんだよ。
「また会ったら」なんて悠長なことを言う人がいるけど、その言葉を口にしていいのは、全部を失う覚悟のある人だけ。あるいはよほど失う痛みを知らない、平和ボケしている人か。
明日どちらかが死んだら、どちらかが遠くに行かなければならなくなったら、それこそそんな機会は二度と訪れない。その時に初めて「また」という言葉がいかに重くて、意味を成さないものかを知ることになる。
「また」という言葉は次を期待させる。次がそもそもないなら「また」なんて言うな。
ありもしない「また」を相手が期待しながら死んでしまったらどうするんだ。
「また」って言葉には覚悟がいるんだよ。
軽々しく言っていい言葉じゃない。
もし断るための便利ワードとして使っているなら、「ごめん、無理」と言ってもらえるほうが、痛みはあるけど清々しい。そのほうがお互いのためになる。
「また連絡するね」なんて便利なテンプレで何度もごまかされて、たくさん失望を経験してきたからこそ、「また」を永久に逃してしまった後悔を知っているからこそ、私がこの言葉を使う時は本当に連絡をするようにしている。それだけで「うわ、本当に返ってきた!」とビックリされる。たったこれだけなのにだ。
それほどまでに嘘の言葉として強烈な印象を残しているから、これが有言実行できるだけであなたへの信頼は勝手に上がる。
「また」という言葉は有言実行する意志のある時だけ使う。
もちろん、人間生きていればなにかの事情でできない時もある。本気だったならまずそのことを詫びる。「また」に本気になれる人は信頼を勝ち取れる。
【「また」有言実行率】みたいな評価が第三者から見えたらいいのにね。
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