はじめてのサポートをいただけた話
サプライズは突然に。
昨日私が書いた記事に、note開始163日目にしてはじめてのサポートをいただきました。
奇しくも、この記事は『誰かのためにお金を使う』、利他の精神について書いた記事でした。その記事にこめた思いがさらなる利他の精神を呼び寄せたと考えると、感慨深いものがあります。
通知ウィンドウのプレゼント(ギフト)アイコンと、スターアイコンを見たのは今回が初めてです。
そして、他のnoterのみなさんのところで散々見てきたこの『〇人がオススメしています』というサポートのウィンドウもはじめて付きました。
『はじめてオススメされました』という通知が出た時は、「な、なんだってー( ゚д゚)!!」と素の反応をしてしまったほどです。まさかサポートをいただける日が私にも来るとは . . .
続けていけば、認めてくれる人はいるということなんですね . . .
もちろん、これまでフォローもスキもコメントもいただいてきて、いずれもありがたい評価でしたが、サポートはやはりそのなかでも特別なものです。
額に関係なく、私が生み出したコンテンツに対してお金を使ってくれる。しかも、有料コンテンツとして出していない記事に対してわざわざ投げ銭をしてくださったわけです。こんなに嬉しいこともなかなかありません。
noteでの活動について悩み続けた100日目以降の私
今日で毎日更新は163日目になりましたが、ここまで続けてくるなかで、精神的に参る瞬間はたびたびありました。
これまで何回か書いてきていることですが、noteにはプロとかプロに限りなく近いクリエイターの方々がごまんといます。
その人たちとの埋められない差と、越えられない壁を目の当たりにするたびに「私に足りないものはなんなんだろう . . . 」と悩み続けてきました。
始めて1ヶ月も経たないうちにnote編集部のおすすめに取り上げられたり、フォロワーが何百人と増えたり、スキもたくさんついたりと、私にないものを全部持っていった人を見るたびに、顔の片側が痛みで歪むような苦い感覚を味わってきました。
「〇〇賞を受賞しました」という報告と共に、その実績をプロフィールに加えている人たちを見て、「あぁ、あなたは私と住んでいる世界が違うんだな」と、私の意思に反して心のどこかで思ってしまったこともありました。
「私も毎日1を積み重ねているはずなのに、私だけどうしてどこにも行き着けないんだろう」という気持ちの表れだったんだろうなと思います。
さらには、Twitterのリストを開いたらそこにはある人のnoteのシェアツイートとリツイートで埋め尽くされていたり。見たくなかったものを目にして顔を背けようとしても、顔を押さえつけて無理矢理見せつけてくるTwitterを何度憎んだことか。
いくら自分なりにSNSとの向き合い方を貫こうとしても、そう思う時点で私はSNSに向いていないし、大衆受けするようなキャラを演じることもできない。有益な情報発信をしなければならないという風潮にも疲れてしまった。そんな、今の時代に求められている情報発信者像に近付けないことも、心のなかで割り切ろうとしながらも、ずっと悩んできました。
私が数字に対する執着を捨てて自由でいることを選んだ一方で、他の人たちはどんどん頭角を現していく。どんどん置いていかれているような焦燥感を覚えたことだって何度もありました。
こうしていろいろなことに悩んでは辟易していくうちに、どんどん文章も尖ったものになっていった自覚も少なからずありました。でもこれ以上鋭くさせてしまっては、せっかく近付いてきてくれた人にも鎌鼬を飛ばして傷つけてしまう。一時期よく見かけた『感情の解像度』という言葉は、やむを得ず感情に蓋をして押し殺すしかなかった当時の私にとっては、この上なく苦しい言葉だった。
それでも、自分の内側の声を表現し続けるしかありませんでした。意図せず傷つけてしまった人もいるかもしれないと後悔に似た気持ちを抱いた日があっても。
自分なりの努力をしても芳しくない状態が続いて、いつからか「私には文章の才能がないのかもしれない」と思う日が多くなってきました。毎日更新をしているのはまずは自分の『続ける力を養うため』という目的のためということは自覚していても、フォローしている方々の記事を開くたびに、圧倒的な文才の差をイヤでも痛感させられることになる。
もう本当にやめたほうがいいのかな。これ以上続けて何になるというんだろう。
私が続けたところでいったい何になるというんだろう。何の価値を世にもたらすというんだろう。
毎朝、電車で移り行く景色を遠い目で見ながら考えるようになるところまできていました。
それでも。スランプに似た感覚に苦しみ続けながらも、毎日続けることだけは守り続けました。その結果、前よりも少しずつコメントをいただける機会も増えてきたし、今回こうしてサポートをいただくこともできた。
大丈夫、まだ見放されてはいない。
崖から足を踏み外しかけた瞬間、咄嗟にフックを引っかけてくれたような感覚がありました。
いろいろなことに悩み苦しんできた数ヶ月だったけど、積み重ねてきたものを崩すことなく踏みとどまることができました。本当にありがとうございます。
結局、地道に続けていくしかないのかもしれない
先ほど、「私にないものを全部持っていった人を見るたびに」という話をしましたが。
noteの編集部のおすすめに取り上げられようと、バズろうと、なにかの賞を受賞しようと、それは一過性のもので、その後のコンテンツが私たち自身の好みとの親和性がないとわかれば、離れる人はすぐ離れていきます。
どこか目を引く場所に取り上げられるということは、それだけハードルも高くなるということでもあるわけです。いいことばかりではない。表裏一体の真理はここでもついてまわります。
外部から一時的なブーストがかかろうと、最後は『人』で決まる。最後に残るのは、その人の人柄に惹かれたファン。その本質はここでも変わらないんじゃないかなと思います。コンテンツに人がつくと、特化したコンテンツを発信している間は定着しているかもしれないけど、方向転換を強いられた際に一気に人が離れていく。
私が成長していく過程を楽しんで一緒に見てきてくれている人を、より大切にしたいなと、思うわけです。
たにかつさんのこの記事で書かれていたこととまったく同じ結論に、最終的に私も行き着きました。
ということで、これからも壁にぶつかるたびに悩むことはたくさんあると思いますが . . .
有益な情報を発信できているかどうかはわからないけど、「私はこういうことを考えている人間です。時に刃が鋭くなりすぎることもあるけど、それでもいいなら私の空間の扉は開けておきますので、いつでも遊びに来てください」という姿勢で地道に続けていこうと思います。
サポートの使い道について
それと、最後に大切なことを書いておきたいと思います。
めでたく今回はじめてサポートを受けたわけですが、サポートでいただいたお金につきましては、『自己投資』『書籍の購入費用』『寄付、またはサポートの資金』『その他、より充実したコンテンツをお送りするための資金』として、大切に使わせていただきます。
額に関係なく、その方の『命』という大切な時間を燃やして得たものなわけですから、なにかしらの有意義な用途に充てることを、この場を借りてお約束いたします。
サポートでいただいたお金が手元に届いた暁には、もしかすると、世の中の情勢を鑑みて、寄付に使わせていただくこともあるかもしれません。その際は、記事にてその旨を報告したいと思います。
また、noteで別のクリエイターの方をサポートする資金として使わせていただく可能性もあります。
「良いものは良い。良いものにはお金を払う。」という意識が強い海外と違って、日本には投げ銭の文化がまだ定着していないと感じます。
そこで、いただいたご恩をさらに別の方に送って、サポートの輪を循環させる、という使い方もなかなかオツなものではないかなという気がしています。
特に、あまり日の目を見ていないながらも、私たちから見て「もっと評価されるべき」と思うクリエイターの方はたくさんいらっしゃいます。私の琴線に触れるコンテンツを世に出してくださった方が、サポートを受けて「もう少し頑張ってみようかな」という活力にしてくれれば、読み手も幸せになれる。そんな、利他の精神の循環をまわしていけたらいいなと思っています。
最後になりましたが、皆さん、いつもありがとうございます。
スキも、コメントも、フォローも、サポートも、いずれも励みになっております。
noteの片隅で誰の得になっているのかもわからないような記事を書き続けている私ですが、あなたにとってなにかを考えるきっかけになるような記事をこれからも書いていけたらと思います。