『できる』『できない』のどちらかでないといけないの?
『できる』のか、『できない』のか。
. . . と、0か100かで決められやすいこの時代。
出世するためには。成功するためには。信用を勝ち取るには。
最初から「できる」と言い切れ。
何がなんでもやれ。
そんな強い言葉をインターネット上で、特にSNS上で目にすることも多くなった。特に外資系アカウントやイケイケのベンチャー系アカウントに多い印象を受ける。
最初から「できない」と言うな、といった反対の言葉も見てきた。
しかし、私からしてみれば、最初からできないとわかっていることを「できない」と言える人のほうがむしろ潔いと思うのだ。「できない」と言えることはつまり、自分にはできないことを知っていて、さらに自分の限界を知っているということだからだ。
できると強気に言っておきながら「できませんでした」と言っていた人をたくさん見てきたし、明らかに手に負えない量なのに「できます」と言ってしまって周りに迷惑をかけている人も見てきた。
『木を見て森を見ず』とはよく言ったもので、自分の評価を優先するあまり、周りをやたらと急かしたり、勝手なことを言ってきかなかったり。周りのことや先のことを考えることが"できない"、そんな傍迷惑な人間も身近で見てきた。
『自分を追い込むことで限界を超えて、さらに成長していくため』といった考えもわかる。
でも、自分の限界を知らずして限界など超えられるはずもないし、逆に自分のことが見えていないのに飛び込んでいくのは、ただの無謀でしかない。
「最初からできるかどうかわからないことだけど、『やるだけやってみます』」ではダメなのだろうか。
「責任は取ってやるから、やってみな」と言ってもらえているなら話は別だけど、根拠のない自信に任せて「できる」と言うのは無責任とも取れる。
それでも、「できます」と言い切らなければいけないような空気になりがちなこの社会に、私は違和感を覚えずにはいられない。「やるだけやってみます」と言っても、「できるかできないか、どっちだって聞いてんだよ」と何がなんでも二択に持っていく人もいる。そんなに人を追い詰めて何になるというのだろうか。
「できます」と言い切って期待させておいて「できませんでした」で終わってしまう人と、「(どうなるかはわからないけど、)やれることはやってみます」と、冷静に、現実的に物事を見た上で言える人であれば、私なら後者を信頼する。
でも私がこうやって書こうとも、今日もインターネット上ではフォロワー数の多いSNSアカウントがつぶやく「できます論」や「コミット論」にたくさんいいねという名の数字がついて、あたかもそれが真理であるかのように"作られた世界"に訴えるのだろう。
それが嘘とは言わない。それでうまくいった人もいることだろうし、その方法が通る場所ならどんどんそうするのもありだ。
しかし、経験の有無に関係なく『できる』『できない』の0か100をその場で求めるのではなく、その間の「やるだけやってみます」「やれることはやってみます」という現実的な考え方が、もう少し支持されてもいいのではないだろうか。
現実的に無理な全体の業務量を「できます」と、周りと先のことを考えずに言ってしまった人を見てそんなことを思った、ある日のお話。