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テント芝居 Ⅰ

テントは魅力に溢れている

 劇団野らぼうは2024年に足掛け6年、ついに劇団発足以来目標としていた”テント芝居”の公演を実現させた。公演地は、松本、東京、浜松にて。
6年という月日は掛かったものの、スキルや関係性、そして思考の部分で必然な準備期間だったというのが、主にコアメンバーの公演が終わってからの感想。
劇団発足から最速で準備して、2-3年のうちにテント公演を打つという現実もあったかもしれない。しかし、実際にやっていたらたぶんテントも組織も脆いものになっていただろうと思う。
今は、強靭ではないが、そしてまだまだ何もわかった訳でもないが、ひとまず浮き足立たずに地に足つけて、積み重ねてきた時間と経験が、テント芝居につながっていることを感じられるので、そのことについて書き留めたい。

 テント芝居はとにかく、表現手法のひとつの到達点だと思って疑わない。疑ってみてもその隙がない。
現状、テント芝居がゴール。その先には何もない。
鬱陶しい社会生活ややりがいのない日々に悩む人がいたら、ぜひテント芝居を目指してほしいと本気で思える。
それくらい、大変さとやりがいに満ちている。

"動かない点"=土地

 テント芝居の魅力や特徴を聞かれると、その答えがあまりにたくさんありすぎるので毎回答えに窮している。
聞かれた時は大抵、相手の専門や聞きたいと思っている内容、顔色に合わせてその答えを変えている。とにかく複合的に、テント芝居は素晴らしい。

 そのうちで最近、なるほどと実感したことがあった。
それが"土地"との関係に関して。

 僕の創作ではしばしば、『移動』がテーマになる。人の移動、ものの移動、思考の移動、移動にまつわるエネルギー、時間、プロセスなど、様々な要素を含んでいる。

 そして、移動にはその対称として欠かせない要素、”動かない点”が必要になる。
それが、”土地”。
より大きなスケールで捉えると、土地そのものも動いてはいるけれども、人間の認知できるスケール感では、”土地”は動かずにずっとそこにある。
そしてその”土地”に対して、僕はなかなかいいイメージを持てていない。
その所有、生産性、占領、奪い合いで、個人も産業も戦争も、抜け出せない憎しみに絡め取られてしまっていると思えてならない。遊牧や漂泊、移動する民のことを常に考えていたい。
だから、”土地”という対象(="物")に対して、所有権や価格が紐づけられていることが感覚的にずっと不思議でならなかった。

”場”を構想する

 テント芝居では、その土地とのやりとりが必要になる。
劇場の中で行われる演劇の場合であっても、もれなくその劇場(土地)との交渉が行われることにはなるが、”テント芝居”のそれとは全く異なっている。

 テント芝居の場合、通常”演劇公演が行われる習慣がない場所”を公演地として使用すること、そして”公園利用者や近隣住民に対する対応”など、演劇鑑賞を専門とする空間で上演する場合にはおよそ発生しない、ある種億劫な手続きが必要となる。

 しかし、2024年の活動を通して、テント劇団として現地の方々と関わるにつけて、その億劫な手続きこそが、作品を創作するうえで準備すべき・考えるべき重要な手続きなのかもしれないと感じた。
作品を創作し、その作品に鑑賞者がいる限り、そのための”場所”が必要となる。作品を創作する以上、その”場所”のことまで考えることがある種ひとつの責任かもしれない。そしてその”場所”と関わりに、憎しみの絡め合いではなく豊かなあり方を構想することが、そのまま表現になりうる。

 生きるためには誰かの土地を歩かなければならない(らしい)。
芸術作品は、何らかの理由でとある場所に移送されるが、テント芝居の場合はその土地に住む人々との直接の交渉、交流を重要視したい。
 漂泊するためには”動かない点”が必要で、その動かない点での公演の場を、いかに創造的に設けられるのか。それを現地の人々と構想すること、それもテント芝居がもつ魅力のひとつとしてある。


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