劇場と人形

前田斜め 長野県松本市 劇団野らぼう 作演出/役者 自前のテント劇場での公演を目指し、主に野外での表現を模索。それから人形劇、オブジェクトシアター。 空の下道の上突っ立って考える。 過去のブログはこちら。 ほちゃげら https://hochagera.tumblr.com/

劇場と人形

前田斜め 長野県松本市 劇団野らぼう 作演出/役者 自前のテント劇場での公演を目指し、主に野外での表現を模索。それから人形劇、オブジェクトシアター。 空の下道の上突っ立って考える。 過去のブログはこちら。 ほちゃげら https://hochagera.tumblr.com/

最近の記事

創作覚書_ゾーエーⅣ

”あるけどない”存在について考えることは、劇作としては珍しいことではない。 そのことについて表現している作品は最近かなり多く見かける。 だから、というわけでもないけれども早くこのテーマを突破したい。 “あるけどない”ための設定や、“あるけどない”ための方法、“あるけどない”場所やルール。それらについて自分なりの解決策を言及したのが、創作覚書_ゾーエーⅢの白いクラゲ(雲)だった。あれは、装置としてはあり得ると思っている。 ただ、それはひとつのきっかけにはなりうるけれども、答え

    • 創作覚書_ゾーエーⅢ

      ゾーエーとは“生命”という意味で使っている。 “生命”にはふたつあって、“ビオス”と“ゾーエー”。 ビオスは、個体ひとつひとつの命として、 ゾーエーは生命という言葉で表される、連綿とつながる一連の流れの命として理解している。 僕たちは個体ひとつの命を生きつつ、同時代に生きる生物としての生命の上にも生きている、と言える。 ただ、普段このゾーエーの上に生きているということは意識しずらい。 だからゾーエーは“あるけどないもの”を表す造語として使用している。 演劇的にあるものについ

      • 創作覚書_ゾーエーⅡ

        いないことを証明することは難しい。 究極的には説明できないと思っている。本当はいるのかもしれない。 だから、“いない”と人が認識する時、“いない”のではなく、“いないと信じている”のだと思う。 “いる”と“いない”のまどろっこしい考察の続き。 認識についての理解を、十分に僕ができているわけではない。 この分野は精神や心の話になると思うのであまりにも奥が深い。 だからひとまず現状の理解として、人は“知る・気付く・信じる”の3つの階層で物事を認識していると仮定している。(知るは

        • 創作覚書_ゾーエーⅠ

          僕の表現では、どうやらいつも"いない存在"について考えてしまうらしい。 でも前からそうだったというわけではおそらくない。 たぶん、自分で自分の作品を演出をするようになって、あらゆる事柄に線を引いてサイズを決定しなければならなくなった時に意識し始めたんだと思う。見える存在と見えなくなってしまう存在(視覚的にという意味ではなく認識として)、外側と内側。 作品作りに際して、そのやり方、劇世界の設定が方法論として決定してしまえば迷わなくなるのかもしれないけれど(それはそれで寂しいが)

          創作覚書_あがたの森公園-Ⅰ

          僕たちの劇団が拠点としている公園。 “公園を拠点としている”というところにいささか違和感がなくはないけれども、いわゆる建築物としての劇場も、その運営が行政、もしくは民間(営利/非営利)であったとしても一定の公共性が担保されており、そういった意味では劇場とはどの運営であっても、公共施設である(べきである)と言える。 それでいくと、劇団が公園を拠点としていてもおかしいことではない。事実、これまで公有地を劇場(何かが起こり得る場)として確保しておくことへのアクションが行われていた経

          創作覚書_あがたの森公園-Ⅰ

          創作覚書_移動

          移動について。 人は歩いたり走ったりする。自動車に乗ったり自転車に乗ったり。 移動は僕にとって常にテーマだったりする。 それはテクノロジーの歩みと同調しているし、大きな意味では大陸間の移動、この国の人々はどこから来たのか、的な話ともつながっているので面白い。 家の近所にも縄文遺跡が有ることをみると、はるか昔からここには人が生活していたらしい。それでも歴史を紐解いていけば、常に幾つかの種族が入り乱れていたようで、その気質や環境に合わせて適した生活を営んでいたことが知れる。歴史は

          創作覚書_移動

          創作覚書_場所性

          演劇(舞台芸術)は、映画や音楽と違って複製不可能なもの(コピーして楽しめないもの)であるから、場所に対しての眼差しが強いと思っていい。 というか、表現そのものに折角その性質を孕んでいるのだから、考えないことには勿体無い。 映画でいくら場所性に絡んだ表現をしたとしても、その形態そのものの所在のなさに物足りなさを感じてしまうので心の底までは響かない。映画が言及できる”場所”とは、カメラの置き場所だけじゃないだろうか。 程度の差はあれど、ダンスや演劇、インスタレーションなど、上演を

          創作覚書_場所性

          創作覚書_集団

          作品の内容を作るのと同じくらい、その集団(座組)をうまく構成させるというのが、表現として重要になると思っている。集団そのものが表現になりうる。 集団の種類にはいろいろとあって、演劇内外でも、生きるためには集まる必要がある場合が多いし、集まった方が面白いことも多い。 私が所属している集団には、”劇団”という冠言葉をつけている。比較的一般的な名称の付け方。しかし最近では、この"劇団"を名乗る集団は少なくなっていると感じる。 中身としては劇団的集団であることは多いものの、必ずしも

          創作覚書_集団

          創作覚書_演出-Ⅲ

          演出家の仕事が舞台上を”観ること”で、その上で"そこにいられる方法を考える"だとしたら、その方法に演出家の仕事の数々が表層的に現れてくると思っている。 そこにどのような思想を持っているかで、作品の好き嫌いが分かれる。 私としては、”そこにいられる方法”は役者及び役者以外の物(オブジェクト)やそれ以外の存在に対しても当てはめたい。 なぜ、そこに有るのか。 舞台上の存在には4種類のあり方があり得る。 ・あるもの。(見える、聞こえる、観客の全員が認識しているもの) ・あるけどない

          創作覚書_演出-Ⅲ

          創作覚書 演出-Ⅱ

          演出家の最大の仕事が”観るためにそこにいる”だったとして(まあ当たり前のことなんだけれども)、その上でそこで何を具象化させるのが優れた演出家の仕事なのだろうか。 表面的に答えると、それはたぶん舞台を構成させる要素の工夫(粋、ウィット)、ということになるのかと思う。 単純にシーンを構成させる時に、役者と空間、美術と音、光、それらの組み合わせとそれ以外の要素とのマッチング。 意外なシーンで意外な物と組み合わせたりするとそのシーンが妙に浮き上がって観えてきたりする。そういった工作

          創作覚書 演出-Ⅱ

          創作覚書 演出-Ⅰ

          ”演出”という言葉にあまりしっくりきていない。 そもそも具体的に何をもって演出というのか、あまりよく知らない。 興味がないわけではなく単純に学べる機会がなかなか少なくて、演出家向けのWSがあったら参加したいと思うし(あるべきだと思う)、稽古場見学で他の演出を覗ける機会などがあったら率先して行くようにしている。 自分の演出としての創作は、かなり手探りで模索している。 演出家の仕事はなんだろう。 これも演劇に馴染みがない人にはあまり意識されていないだろうけれども、演劇の現場には

          創作覚書 演出-Ⅰ

          創作覚書 オブジェクト

          物との関わりについて考える。 物は、thingsとかmaterialとかfigure、もしくはobject。 ここではobject。主体と客体の客体。 なにしろそれについて考えることが、いま最も大切なことだと思っていて、私の表現はたぶんそこに帰結していく。この先ゆっくりと。 このことについて専門的に扱っているのがオブジェクトシアター(人形劇界のひとつの潮流)であって、しかし普通の演劇をやる場合においても物との関係を考えたほうがいいと思っている。このことは私の演出にも深く影響し

          創作覚書 オブジェクト

          創作覚書 レジスタンス_抵抗

          テントがテントたる所以に、抵抗の態度が含まれているのはおそらく本当のことだと思う。 ”なぜ、劇場ではなく自分たちで空間を建ち上げるのか”。"なぜ、既設の野外ステージでもなくテントを用いるのか”。"なぜそこまでして演劇を行うのか”。 テントはひとりでは建ち上げられない。テントを設営するには人数が必要で、テントの目的は”観る観られる関係”を成立させるためのものであって、更にそこで上演される演劇そのものが意味(物語やドラマ)を必ずしも持ったものではない場合、この一連の行程に巨大な

          創作覚書 レジスタンス_抵抗

          創作覚書 バランスの時代

          これはあれだな的にいうと『悪は存在しない』はコンヴィヴィアル・テクノロジーで言うところの”2つの分水嶺”であって、下北沢国際人形劇祭で上演されたダラー・マクローリンの”STICKMAN(棒人間)”だ。 そのどれもこれもがバランスについて語っている。 イスラエルパレスチナ紛争をはじめとして、極めて複雑化した(一国の主権を争うだけの紛争ではなくなっている)今の時代において、何を語るべきなのか。表現者はその言葉を探している。 その答えのひとつとなるのが"バランス"だろうと思ってい

          創作覚書 バランスの時代

          創作覚書 新しい自然(⇔新しい公共)

          ”自然”には本来の意味の自然(一般的にイメージされる『自然豊かな』の自然)と、人工的に作られた意味での自然のふたつの種類があるらしい。(ローワン・ジェイコブセン著 『ハチはなぜ大量死したのか』を読むと、世界中でミツバチが突然姿を消す"蜂群消滅症候群"は農作物の受粉促進のために飼い慣らされた農業ミツバチにのみ起こっている症状で、野生のミツバチに起こっている現象ではないことを言及している。) 本来での意味での自然は”野生”とか"原生"とかと言われるべきもので、その野生や原生は人工

          創作覚書 新しい自然(⇔新しい公共)

          創作覚書 小さな演劇の大きさについて

          演劇というのは境界線を扱う行為(ゲーム)である。 必ずしも作家がそのことを考えていなかったとしても。 必ずしも作品の主題がそうでなかったとしても、演劇は常に境界線を扱っている。 演劇におけるドラマの所在は常にそこにある。 何と何の境界線を描いているか。 最も単純な答えは"現実と虚構"ということになる。 役者は生身の人間で、必ず自身の生活を引きずっていて、その生活と役の人生を重ねて生きることになる。だから役者の身体には実人生と虚構としての人生が送られることになり、その2つの人

          創作覚書 小さな演劇の大きさについて