創作覚書 テント
創作に際して毎回大量のテキストが発生する。
それを今までは内部で共有したり自分の中に為おいていた。
今後はその覚書を残す。
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ゼロカーボン演劇(2022年から劇団野らぼうが取り組んでいるイチ演劇の手法)含め、今後の創作において指針を決めていく上でもっとも重要なキーワードは“脱人間中心主義”だろうとますます思っている。
その匂いは日々色濃くなっているし、その線で新しい価値を見つけ出している人が徐々に現れている印象。
ロレンスの雲(劇団野らぼうの2023の公演、ゼロカーボン演劇~限られた電力編~)に関しては、そのことをすごく考えていたので、やはり本丸だったのは太陽光の使用と同時に、4月1カ月間の“天候次第の不定期開催”の公演スタイルだったと思っている。
天気に左右されつつ芝居はやっているので、いい具合に脱人間中心主義できている。
2024はテント公演を行おうとしている。
そのテントでは脱人間中心的態度がなかなか取りづらいのが時代の流れの繊細な潮流として感じている。
テントは“環境”よりも、“社会”との接点を描きやすい印象。
もともと資本中心の巨大な社会構造に反旗を翻すために立ち上がっている文化であると言えるので、ビルとビルが乱立する間でテントを拵えて自分たちの自由と表現の場をひらくっていう行為はすごくわかるし、その状況にはテントが似合う。
都会から離れた森の暗闇で観るテント芝居も粋ではあるが、実際そういう場所ではもっと開放的なフェスに形状を変えていくのが例として多いのではないか。
だからテント芝居は都市のものだとも言えるし、都市にある種ねじ込む面白さがあるんだろうと思う。
今やその都市、社会の構造自体が壊れていっている状況では、テント芝居は果たしてそのアジテーションになりえるのか、むしろ市井の同調を促す?もしくは断末魔?など。
どういうふうに受け取られるのか、その子細な部分は不明。ただ、アジテーションというよりは、いくつかの解決策のひとつという風にもなりかねないのではないか、という淡い危惧もわずかにある。
ここで何が言いたいかというと、テントは人間讃歌が一番似合うと思っている、ということ。
ねじ込んで謳うかっこよさ。
その熱さに憧れた。
その行為が今どれくらい通用するのか。
いや、通用するとは思っている。
生きてる人ひとりひとりの意思としてはそれでいい。ただ、全体の画として、つまり“人間讃歌”を謳っているだけでは“脱人間中心主義”は描けないのではないか、という危機管理が働いている。
もう少し先の新しい文脈が必要。それは勝手についてくるのかもしれないしそうでないかもしれない。
ここで思うのは、“社会”をどう捉えるかが重要だろうということ。社会=テントの周辺。
“敵”と捉えるならそうだし、“変革”と捉えるならそうだし、その視点でもうひと越え次のページをめくる必要がある。
テントが人間讃歌になりうるのはわかる。ではその周辺がどうなっているのか。