創作覚書_場所性
演劇(舞台芸術)は、映画や音楽と違って複製不可能なもの(コピーして楽しめないもの)であるから、場所に対しての眼差しが強いと思っていい。
というか、表現そのものに折角その性質を孕んでいるのだから、考えないことには勿体無い。
映画でいくら場所性に絡んだ表現をしたとしても、その形態そのものの所在のなさに物足りなさを感じてしまうので心の底までは響かない。映画が言及できる”場所”とは、カメラの置き場所だけじゃないだろうか。
程度の差はあれど、ダンスや演劇、インスタレーションなど、上演を前提とする舞台芸術は常に、場所に対する眼差しを保持している。
その眼差しは、作品を成立させようとする最初の一手から影響を及ぼす。
公演を行う場所をどのように選択するのか、その舞台をどのように使うのか、どこまでを舞台としてどこからを客席とするのか、など。
環境が整備された既設の劇場内でやれることはそんなに多くはない。
一方、野外劇をやっていると、常にその場所のことについて考えることになる。
自分で環境に線を引いていくことにならざるを得ないので、そのことに気がついた瞬間に緊張する。自分の決定が作品の良し悪しに影響を及ぼすし、心地よさに作用する。
場所を選定して運用することを、”占有する”という。公園などの土地を借りて使用する場合も、公園に対して占有許可申請を行いその区画分の使用料を支払う。
舞台として占有するにあたって、現実的な課題を考えると、観客の導線や収容人数、見やすさ、周りの環境への配慮、雨風への対策など、考えるべきことは様々ある。
それらを経験則から形式的に考えてしまうと面白く無いので、現実的な必要に応答しつつ、常に柔軟に、タブーを恐れずに形作っていきたい。
そしてそれらを作品ごとに考えることは想像以上に豊かなことで、私が頻繁に公演を行なっているあがたの森公園の中だけでも限りなく展開があるように感じている。
こうやって場所に対してアプローチ(答え合わせ)できる演劇は、やっぱり楽しい。
そしてこれは、”どこでもない空間”としての、いわゆる劇場空間の舞台ホールでの場所性とは性格が違うのだろうと思っている。(経験があまりないのでわからないが。)
どこかの誰かの土地や、何らかの名前がついている場所を使ってそこを舞台として使用することは、自分でその場所に対して意思表示することでもあるし、その土地の歴史や人との関係性を孕んでいることなのでそれらを蔑ろにはできない。
創っているのが演劇なので健康を脅かすような害悪はそんなにない。
しかし、これは人が常に社会生活を営むために繰り返し行なっている行為の縮小版であるとも感じているので、そのことに自覚的でいたい。小さな眼差しは大きな眼差しと常に繋がっている。
演劇が、その場所に吹いてくる風や匂いとおんなじように、やってきては消えていく存在であるのだとしたら(たとえ屋内でも)、どのような態度でそこにいることが望ましいのか。そのことについて考えたい。
これが、場所に対する眼差し。
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