見出し画像

創作覚書 新しい自然(⇔新しい公共)

”自然”には本来の意味の自然(一般的にイメージされる『自然豊かな』の自然)と、人工的に作られた意味での自然のふたつの種類があるらしい。(ローワン・ジェイコブセン著 『ハチはなぜ大量死したのか』を読むと、世界中でミツバチが突然姿を消す"蜂群消滅症候群"は農作物の受粉促進のために飼い慣らされた農業ミツバチにのみ起こっている症状で、野生のミツバチに起こっている現象ではないことを言及している。)
本来での意味での自然は”野生”とか"原生"とかと言われるべきもので、その野生や原生は人工的な自然とは違う。
つまり、”人が住んでいる場所⇔自然”という対比があったとしたら、その内容は厳密には”人が住んでいる場所⇔人工的な自然⇔元来の自然=原生”という区別になる。人工的な自然とは、植林された森、人為的に繁殖された家畜、合理的に遺伝子を組み替えられた動植物、社会性をコントロールされた蜂など、あらゆる生命体を含む。
もしかしたら無生物も含むのかもしれいない。密集して建ち並ぶ摩天楼のビル群も人工的な自然と言っていいのかもしれない。
それに輪をかけてデジタルネイチャー甚だしい昨今である。
情報が知性を持ち自らが自らを生成して拡張していくような時代に、新しい自然観を持っておきたい。

自然を考えることはライブパフォーマンスを考えることになる。
ライブパフォーマンスとは”生きている”芸術であり、そのルーツには遥か遠い過去からの歴史を有しているため、原初的な意味での魅力を有していると言える。テクノロジーを必要としないこの行為は、人工的に生み出された造作物を極論必要としない。観る人と観られる人さえいれば完成する。
実際の舞台で考えると、そこにはありとあらゆる、観られる人以外の要素も存在する。そのほとんど全てが人為的にコントロールされているはずである。舞台機構も、美術も、衣装も、照明の光も、そのすべての裏側に人間がいて、そこに思考と手が加わっている。
それと同時に、舞台上にいる人間。そこにはもちろんその人自身の作為は介入するものの、ライブパフォーマンスの観客は往々にしてその作為から漏れ出たところに出会いたいと欲する。
(これはある種の偶然性とも取れる。偶然性=自然?)

ライブパフォーマンスは文明じゃない。
ありとあらゆるものが計算され尽くして生産されている中で(計算されていないものは粗悪品となる)、ものの形や建築、映像や音にアフォードされながらひたすら定まった道順を辿っていく生活、文明の営みの中に、そこから漏れ出たものがあるとするならば、それこそがライブパフォーマンスの真価である。
ライブパフォーマンスは常に原生であろうとする。

ライブパフォーマンスが原生でいられるのか。もしくは、人工的な自然となるか。
何もないところに原初的な自然がまず存在し、そこに文明が栄えて社会ができ、そこで生活を営む人々が、世代や慣習、認識の変化の影響を受けながらも未だに人としての営みを続けるのだとしたら、私たちはまだそこに”生きる自然”そのものであるはずで、その厄介な生命体を統率するのが社会で、それでもその自然(人)は常に元来の自然でありたいと願うのだとしたら、パブリック=公共を考えるということは、文明⇔人工的な自然⇔原生、その揺り戻しを常に考えることなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?