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創作覚書_ゾーエーⅢ

ゾーエーとは“生命”という意味で使っている。
“生命”にはふたつあって、“ビオス”と“ゾーエー”。
ビオスは、個体ひとつひとつの命として、
ゾーエーは生命という言葉で表される、連綿とつながる一連の流れの命として理解している。
僕たちは個体ひとつの命を生きつつ、同時代に生きる生物としての生命の上にも生きている、と言える。
ただ、普段このゾーエーの上に生きているということは意識しずらい。
だからゾーエーは“あるけどないもの”を表す造語として使用している。

演劇的にあるものについて考えるときに、現実と虚構という軸が見えてくる。
特に屋外で、公園のようなところで上演をしているとその対比は著しい。
見慣れた風景と創作物との間に圧倒的な対比が描かれる。
その両極をどのように結ぶか、距離を取るのか同調するのか、というところに野外劇の面白さの一端がある。(これは同様に、場所に関して意識を向けるなら劇場でも同じことが起こり得る。)

では、その虚構がどこからくるのか。
そのことを考えることも興味深い。
ややこしい話ではなく具体的に、上演にまつわる機構として、人がどこから出てどこへはけていくのか。それを考えることも、演劇的なあること(存在)について考えることにつながる。
まず一般的に楽屋がある。役者の控え室として、上演には楽屋が設けられていることが多い。
そこから通路へ続き、より舞台に近いところへ行くと、舞台袖というものがある。多くの場合、舞台の上下(かみしも)に設けられたそれから、役者は舞台上に登場することになる。
楽屋ー通路ー舞台袖ー舞台。これが一般的であると言える。
ただ、それは本当にそうだろうか。
楽屋、そして楽屋から舞台をつなぐ通路、そして舞台袖と舞台の関係、これら一連の機構を演劇的存在のあり方の基本であると捉えるのには、かなり疑わしい。

詳しい系譜に現時点でたくさん触れているわけではない。
ただ、例えば劇場の構図(https://amzn.asia/d/cL5FOJ0)で見るように、これらの、特に舞台袖という機構が上演に寄せられたのは西洋文化到来以降の新しいものであるはずだし、歌舞伎で観るにつけ能で観るにつけ、舞台と楽屋(虚構と現実)の繋げ方には舞台袖以外に相応の思考が施されていることがわかる。(花道や橋がかりなど。“道”について考えることをしたい。)
だから演劇をやるとしたら、今一度その機構(あり方)を考えることをしたい。

舞台機構を考える時、“舞台袖”もおそらく“あるけどないもの”の部類に入ってくるように思われる。
演劇を何も観たことのない、極めて純粋な視点から感想が持てるとしたら、あの人が出たり入ったりしている布はなんの為にあって、そこから出てくる人はなぜ舞台上のことを何も知らない振りをしているのか、という感想が持てる。ただ、ほとんどの人はそんなこと忘れてしまって、お約束として舞台袖の存在に順応してしまっている。見て見ぬ振りをしている、とも言える。いちいち反応していてもやってられない。演劇にはそういう力がある(これがフィクション)。

生命=ゾーエー=”あるけどないもの”=舞台袖、という連関で考えられるとしたら、僕の作品作りではひとまずその舞台袖を疑っており(野外における舞台袖はそれこそ疑う余地ばかり。)、舞台袖に変わる装置として、クラゲのような、雲のような白い物体を採用している。
役者はこの物体から出たり入ったりして舞台に登場する。
この装置のことをゾーエーと呼んで、作品作りの起点にしている。
そしてそのゾーエーを、装置に留まらない視座で捉えたいとも思っている。

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