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創作覚書_ゾーエーⅡ

いないことを証明することは難しい。
究極的には説明できないと思っている。本当はいるのかもしれない。
だから、“いない”と人が認識する時、“いない”のではなく、“いないと信じている”のだと思う。
“いる”と“いない”のまどろっこしい考察の続き。

認識についての理解を、十分に僕ができているわけではない。
この分野は精神や心の話になると思うのであまりにも奥が深い。
だからひとまず現状の理解として、人は“知る・気付く・信じる”の3つの階層で物事を認識していると仮定している。(知るは知識として、気付くは感覚として、信じるは推論としての存在の認識)
それに当てはめると、“いない”は知識でも感覚でもなく推論、“信じる”類のものになると思っている。

では、今ここに“いない”ものが、どこにいるのか。
隣の部屋にいるのか、隣の街にいるのか。
天井裏にいるのか、地球の裏にいるのか。
実際のところ、これもわからない。
確率的に考えると、そこにはいないだろうと思って、いる場所を推測って認識している。
ここで気がつく。どこにいるのかわからないのなら、もしかしたら“いない”存在はすべて、同じところにいるのかもしれない。
例えてそこを“いないルーム”としてみる。
今ここに“いない”存在は全部そこにいて、尚且つ“いない”世界はそこでひとつにまとまっている。

誰もいない、でも誰かがいるかもしれない空間の中で、それでも絶対にここには誰もいないだろう、と胸を張って言える場所ってどこだろう?と考えた。
物陰も、暗闇も、隙間も、裏側も、確認はできるが一度に全部を見ることはできない。だから確実に“いない”とは言い切れない。それでもここには“いない”だろうと思える場所。
それがひとつだけあった。
それは、光を当てても照らしてみることができない場所。物の表面の内側。
ぎっしり詰まった密度の中。ひたすらな闇。
そこには、(そこに存在するもの以外は、)何も存在することができないのではないか。(その密度の存在とそれ以外の不在が同居している。)

机の裏側、机の下、机の引き出しの中ではなく、素材としての木の内側。
本の薄い紙の内側。
そこには流石に、存在することができないのではないか。
“いないルーム”があるとしたらそこにある。
その中で、”いない”存在たちが1ヶ所に集まっている。

だから物がそこにあることは、面白い。
あらゆる物が、“いない”存在と同居しているのかもしれない。

「時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」
道元が昔言った、「時間は存在であり、存在そのものが時間である。」ということ。もしくは、人が石や人形を信仰することと繋がっているのかもしれない。どうだろう。

そんなことを考えながら、物を見たりしている。
※2024の作品、“内側の時間”というタイトルとの関係はない。

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