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創作覚書 テントの言葉

テントにはテントの言葉がある。
テントの言葉は無骨で雄大でそのくせかっこ悪くてかっこいい。
表現の形式にはそれぞれに適した言葉がある。言葉にも住処がある。
LINEの文面をGmailでは使えないし、しゃべり言葉もシーンによって使い分ける。
その言葉を使う場面、条件によって体裁を使い分けて表現するのは当たり前のことで、基本のきの話。

テント芝居や野外芝居を作るにあたって、その度に文体探しから始まる。
テントと日常はあまりにもかけ離れたものと今は捉えているし、演じるという行為も自分がこれまで作ってきた作品の中では日常的な行為としては全く捉えておらず、虚構(ファンタジー)として扱っている。表現の場では衣装やメイクも含めて、普段の自分から乖離していく。
そういった仕様では、日常から拾ってきた言葉はどうも作品に似つかわしくない。
テントにはテントの言葉を選ぶ必要がある。
でもそのことに気がつくのが毎回遅れてしまう。
新作を作る度に、文体の壁に突き当たり、稽古も進みいざ野外の匂いもしてきたところでやっと気がついて野外用のセリフとして捉え直したりする。書き直したりはあまりしないが、発語の仕方を変える。そして最初予想していた日常的なセリフとしての言葉の運用はなかなかできなくなる。

野外での表現はどんな表現でも可能だし、観てみたい。ただ、自分が作品を作る場合に、日常的な風景から切り離されたエキセントリックな存在として作品を用意してしまうし、言葉もその類のものとして扱ってしまう。
本来ならば日常と切り離されない作品の創作もあり得るはずだし(車を使って車の芝居とかしてみたい。)、日常で喋っている発語を使うこともチャレンジとしてしてみたい。そう思いつつまだできない。"できない"というのは、結局、やりたくないのかもしれない。

問題は頭の中の脚本モードが、そのことをはっきりと判別できていないということで、つまり、戯曲を書こう、何か作品を起こそう、と考えた時に溢れ出てきたものは全て戯曲ではあっても必ずしも野外で演じられるものとしての体裁を整えていない。
なにしろ、日常生活で時間を過ごしている方が圧倒的に長いわけだし、そこから得られるインスピレーションの方が多い。それらの断片を戯曲として昇華させるとしたら日常的な発語でも解決できてしまう。ただ、それでは作り込みが甘い。
作品を書き続けられる人や、自分の舞台を信じてその舞台を日常生活を送りながら引き摺り出して戯曲に起こせる人はすごい。脚本家というのはその仕事をしなければいけない。日常から切り離された文体を引き摺り出す。

テントにはテントの言葉があると思っていて、その言葉の存在に気がついた時に、僕は幸せになれる。
いつも稽古の後半になってようやくその言葉に気がつく。それでは遅い。
テントの文体を常に体の中に駆動させながら、日常を送りたい。

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