創作覚書_移動
移動について。
人は歩いたり走ったりする。自動車に乗ったり自転車に乗ったり。
移動は僕にとって常にテーマだったりする。
それはテクノロジーの歩みと同調しているし、大きな意味では大陸間の移動、この国の人々はどこから来たのか、的な話ともつながっているので面白い。
家の近所にも縄文遺跡が有ることをみると、はるか昔からここには人が生活していたらしい。それでも歴史を紐解いていけば、常に幾つかの種族が入り乱れていたようで、その気質や環境に合わせて適した生活を営んでいたことが知れる。歴史は名前で切り分けて綺麗に分類できるものではない。
人は日々の暮らし中でも、大きな歴史の流れの中でも、常に移動しているのだと思う。
それは、マイホームみたいなものがあったとしても。
というかこの移動の考察は、マイホームみたいなものに対する考察でもあるのかもしれない。
移動に関心があるひとつの要因は、純粋に体験としての面白さがあるから。知らない土地に行ってその土地の空気を感じられるのは刺激的である。知的好奇心と身体的な体験の面白さからそれを好んでいる。これはおそらく多くの人が感じているそれと同じ。根源的な欲求。
移動を語ることは、見ることや知ること、そしてその道中(プロセス)のありようを語ることになるので奥が深い。
でもここで言及するのはそれではない。
僕が移動がもたらすもので最も重要だと感じているのは、移動とは、とあるコミュニティ間を行き来する=そこに属さない、ということで、そのことが”逃げる”という感覚と結びついているということ。やや後ろめたい言い方ではあるけれども。
そんな感覚があるから、移動に関心があって、常にその感覚と付き合っている。
ただ、移動する(逃げる)ことによって成り立つこともあると思って、その手立てを探っている。("逃げ恥"とかは観てない。)
人生は旅だ、とか、まだ旅の途中、とかは言わない。
旅人にみられるある種楽観的なピースフルは馴染まない。
もっと現実的に困っていて、留まるところや留まるコツみたいなものが見つからず、そこにいられる方法がないから移動している、という感覚。
ただ、移動するたびに現地にいる住民に憧れて、どんなに遠くへ行ってもそこには、今朝そこで目を覚ました人々が日々の生活を送っているその不思議を目の当たりにした。
だから、どこかひと所に留まる必要を感じて、今は今いる場所で活動を続けている。
移動することはなくても、変化は起こり得る。
大きな意味での移動はなくても、小さな変化を楽しめば十分に楽しむに足る要素は足元に転がっている。
移動するのではなく、その起点となる場所(拠点)を信じれば移動することとはまた違った種類のスペクタクルが生まれるし、そこに集った人や時間や物はなかなかに信頼できる。
お金や理想ではない、場所から繋がりが生まれるというのは後から知った発見である。
その心地よさや面白さが、いわゆる留まるコツなのかもしれない。
この次に考えるべきは、その感覚と移動を繋げることなのかもしれない。
そんなことを考えながらノマド、移動しながら生活する民を追ったドキュメンタリー映画『middle of the moment』のライナーノーツを読んでいたらちょうどこんなことが書いてあった。
”どんな経験、どんな瞬間の本質も、人々が、占有している場所と強く接している状況の中に見出される。そして一見矛盾するようだが、人が最も強く場所を占有している遊牧生活の中に、それは見出されるのだ。”
なるほど、移動そのものを、逃げると言い表していたけれども、広い意味での占有だったのかもしれない。そう言い換えられるとしたら、自分の勘違い自体が滑稽で笑える。的を得ているかもしれない。
小さな占有からも価値からも逃れるのではなく、それらのすべての上に広く漂泊しようというのが、もしかしたら理想の移動なのかもしれない。
占有なのか、逃げるなのか、わからない。
ただ、健全な判断としての移動はあり得ると思っている。
手放すというのもある。それ以上は持たない、という感覚。
あらゆるものが歳月とともに朽ちていく。そのことを理解していながら、それでも自分が見ている間は豊かであってほしいと願う、円満のうちに終わりたいと思う。そう思うから富や資源を前借りしてやってきたところが事実ある。体裁を守るための、その場しのぎが仕事になってしまっていることには唖然とする。
全てがそうだとは断言できない。ただ、そんな匂いがするから留まることが目的になることは忌避している。
健全であるあり方は、やはり”消えられる”ということなのではないでしょうか。つまり、今移動しているかどうかはともかく、"移動できうる"ように、体勢も思考も、可動式に整えておく、ということ。
留まるために生活するのと、可変しうるものとして生活するのとでは心持ちが全然違う。
移動することはシステムに飲み込まれないということでもある。
こと演劇について言えば、いわゆる業界のシステムに飲み込まれないで活動を拡げていくということも重要で、避けるべきは十把一絡げに消費されていくこと。
演劇の観客は演劇界以外の方が多いに決まっているので、必ずしも業界内でネットワークを構築する必要はない。
むしろその枠を広げる試みの方が重要。
これらの条件を考えるに、やはりテントというのはちょうどいい。
移動を試みつつ、同時に留まることも諦めない。
その仕組みを集団で攻略しつつ、土地や物、人や時間の条件から独自の生態系を外側に拡げていく。それが叶えば漂泊できる。
移動そのものが表現になることがありうる。
(パレスチナのことがあるのでものすごく一応追記しておくと、安息を脅かす不当な侵略や理不尽な収奪は容認しない。それに対抗する意味での”移動”ではない。)