創作覚書 演出-Ⅰ
”演出”という言葉にあまりしっくりきていない。
そもそも具体的に何をもって演出というのか、あまりよく知らない。
興味がないわけではなく単純に学べる機会がなかなか少なくて、演出家向けのWSがあったら参加したいと思うし(あるべきだと思う)、稽古場見学で他の演出を覗ける機会などがあったら率先して行くようにしている。
自分の演出としての創作は、かなり手探りで模索している。
演出家の仕事はなんだろう。
これも演劇に馴染みがない人にはあまり意識されていないだろうけれども、演劇の現場にはほぼ確実に演出家がいる。
演出家の存在感はなかなかに大きくて、その座組の長であることが多い。でも、それは理想的な在り方であるとは言えない。
特権的な決定権を持った演出家が作品の頂点にとどまっている限り余程のカリスマ性があったとしても健全な創作環境を作れるとはなかなか思えない。作品が演出家のみのものになって、それが面白いとは思えない。
映画で言えば”監督”、演劇で言えば"演出"、バンドにはその立場の人間がいない(たぶん。”フロントマン”がその役割を担ったりする?)。
微妙なニュアンスの違いがあって、この役割の違いから演出を考えると結構面白い。
関係性のベクトルについて一時期(今も)よく考えていた。
パフォーマーがパフォームする時にその意識のベクトルはどこへ向いているのか、ということ。
観客を起点に、モノローグだとしたら、『パフォーマー→観客』なので"前後の関係"。ダイヤローグだとしたら、『パフォーマー↔︎パフォーマー、それを眺める観客』なので”横の関係”と呼ぶことにしている。
あくまでも関係性に起点を置いて舞台作品を創作をしていく場合に、これらをうまく操作することが大事だろうと思っていた(いる)。
関係性は他にもある。
例えば催事などで演舞が行われるとすると、パフォーマーが客席ではなく客席後方の祠に向かって演舞している場合は”斜めの関係”になる。
能の場合は、本来舞台後方の鏡板に反射して描かれている松の木に向かって演じられているものだからこれも”斜めの関係”に近しい。
そして映画の場合は、これは直接その場にいる誰かに向かってパフォームられるものではなく、全てカメラとの関係を築く。そしてカメラは"今"ではなく、未来の観客の目線、未来の眼差しでもある。だから映画の場合は”未来の関係”になる。(このことは濱口竜介著"カメラの前で演じること"に詳しい。濱口監督はこのカメラと演者の距離感が本当にうまい。https://amzn.asia/d/h0nz1dg)
では音楽はどうだろう。
音楽、主にライブでの場合だがこれもパフォーマーのそれぞれが観客と対峙してやめないのでまず前後の関係であることには間違いない。ただ、それともちょっと違う。音楽は演劇やダンス等の舞台芸術よりも、幅広くコミュニズムを目指す性格があるように思うのでこの場合は”円の関係”とかになるのだろうか。前後の関係とはちょっと違う。
このように、ともかく築く関係性に違いがある。
その違いが、それぞれの現場の役割分担に出ているのではないかと考える。
つまり、監督は、明日以降その映像を観るであろう観客の目線になってパフォーマンスに対峙する。バンドの場合は特権的にバンドの演奏を観ている人はいない。参加者通しの一体感で場を立ち上げていく(プロの現場とかはよく知らない)。
演劇は、演出家が、まさに今そのパフォーマンスを感受する受動態として稽古からそこにいる。
それはやはり、観る観られる関係の現在性と現場主義を突き詰めている、今ここであることを信じているからだと思えてならない。映画でもなく音楽でもなく、演劇の複製不可能性。
そういうところが演劇人の憎めないところでもある。
そう考えると演出家の存在はやはり結構重要だし、演出家がいる、演出家が観ている稽古は面白い。
観られることでやっと稽古が成立する、ということもある。