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創作覚書 推論(”言語の本質”より)

言語学は面白い。
ゆる言語学ラジオ の人気よろしくその沼にはまっている人も多いのでは。
わたしはまがりなりにも演劇人、役者としてこの分野に興味がある。
合間合間にリサーチしつつ、音韻論や音声学に関して齧り、詳しくはわからないが興味があるのは音の発声とその違いによって表象されるイメージの差異、イントネーションやアクセントの機微、そのコントロール、みたいなところ。
言葉のどれひとつをとっても言い方次第、音色次第で受け取られるイメージは変わる。その変化が面白いし、その変化をうまくコントロールすることは役者の醍醐味のひとつとも言える。
声で絵を描くイメージ。

今井むつみ・秋田喜美著”言語の本質”はオノマトペ(擬態語)を足掛かりに巨大な言語の謎、その発生と認識の構造、人間と動物の違い、AIとの違い、そして人間とは何かに迫っていく。
印象的だったのは、本の後半、ひとつひとつ謎を検証し解明していきながら、言語を操る人間の特性=なぜ言語を有するのか、ということに言及したところで、その解として”推論”することについて書かれていたところ。
人は物事と物事の”間”を"推論"で埋めながら自分なりの解や意味を生成してく。その推論は、人にしかできないしその能力をこれまでの進化の過程で習得してきたと定義している。そのことを本書では”ブートスプラッピング・サイクル”(靴を履く時に、靴の上部についている舌のような部分を引っ張って履くと履ける=自らの力で自らを良くする)というわけだけど、つまり推論によって空白を埋めることで、螺旋形に体験を更新させながら物事を認識しているということ。
螺旋形は常に大事だし、”曲解”することも創造することにおいてとても大事だと個人的に考えているのでそのこととも繋がる。
常に余白とそこに対するイマジネーションが大切。
ドミニク・チェン著"未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために"にも通じる。

本書の最後に、言語の条件が”身体的なものである”と定義されているのも面白い。記号接地問題というものがある。
人はイチゴを食べた時にそのイチゴの見た目、質感、食感、匂い、味、温度など身体的な体験を伴ってそのイチゴを理解し記憶する。
AIにはそれがない。
無くても物事を語ることができる?知ったことになる?
そのあたりは昨今のテクノロジーの歩みとともに開拓されている部分であり、大規模言語モデルがその予想をひっくり返しかねないからスリリングだ。

さらに言語は、身体的でありながら恣意的で抽象的な"均衡の上に成り立つ”と定義されるところも押さえておきたい。バランス。
最近こういった結論に至る思考に触れることが多い。
固まったり、しっかりしたり、胸を張ったりするものに嫌気がさしているのかもしれない。



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