過去を糧にしようとする話
前回の自己紹介の続きで、社会にでてからの経験をお伝えします。
ナナメちゃんの誕生一歩手前までのお話です。
社会は厳しいといわれるゆえん
社会に出ると、選択肢は無数にあって、
選ぶのは自分で、選んだ場所で
がんばるのだけど、なかなか想像とちがった。。ことってあると思います。
「思ってたより簡単だった!」もあるけど、
「こんなの聞いてないよ~」のほうが多くないですか?
でも、ふりかえると、
「こんなの聞いてないよ~」が
その後の自分の選択に生かされているんです。
思ってたんとちがう、
私がしたいのはこれじゃない、
と思う経験ほど、糧になっているのでは、
と考えます。
4つの「思ってたんとちがう」
時間の経過とともに捉え方が変わりますが、つらかった4つの過去。
1.初めての就職が白紙になる
2.仕事を頑張りすぎて退職
3.初めての育児
4.コロナ出現
どれも大変だった、今となっては大切な経験です。
つらいにフォーカスしているのでお見苦しいと思いますが、少々のお付き合いお願いします(^人^;)
1.初めての就職が白紙になる
大学卒業後は日本語を教えるために中国へ渡航予定でした。
しかし、渡航2か月ほど前に契約取り消しを一方的に告げられてしまいます。理由は伝えられず、日本語教師あるあるということもあり泣き寝入りしました。
自分でも気づかないうちに相当な覚悟を決めて渡航を決めていたようで、張りつめていた糸が切れて、ずいぶんと落ち込みました。すぐに就職活動へ切り替えることもできず、迷子状態を1年弱すごします。
2.仕事をがんばりすぎる
結局、大学卒業から1年強遅れて就職。貿易事務の仕事に就きました。女子校のような雰囲気の職場で、厳しくも楽しく充実した会社員生活でした。英語力を磨き、正社員になることも視野に毎日張り切っていました。
それが、2年半ほど経ち心身ともに不調が続くように。
半年ほどのシステム移管の激務を乗り越えたあと、通常の業務量に戻ったときにバランスを崩してしまいました。いわゆる燃え尽き症候群だったと思います。
仕事から距離を置かないと回復できない状態にまでなったので、泣く泣く退職を選択しました。このときは本当に辞めたくなかったです。
心と体が離れすぎてしまった経験でした。
3.初めての育児
退職後は健康を第一に考え、生活を整えました。自炊と運動で、元気を取り戻していったように思います。半年ほどして新たな仕事にも就きました。以前からやりたかった日本語教師です。熱心な学生に、授業や学生のことを相談しあえる同僚に恵まれたいい環境でした。そして結婚、出産を迎えます。
いま思うと妊娠中から力みすぎていました。
”自然分娩して、母乳育児!!”
けれど思うようにいかないのが育児です。
授乳は難しいし、睡眠不足はきついし、体のダメージはすごいし、
どれも想像を上回ってきました。
その分、もっと「楽」を追求すればよかったのですが、
理想にしがみつく自分(泣)
揺るがない理想が、自分の首をしめていることに気づかない私…。
幸い自分のとりたい方法をとれましたが、毎日かなり疲弊していました。
そして、元々帰宅の遅い夫との育児。
ワンオペになることはわかっていましたが、自分も努力をしないと、
子育ての苦楽を共有できないということを長い間気づけませんでした。
また、当時イクメンという言葉が急に広がった時代。周りのご家庭との違いに落ち込む視野の狭い自分がいたことも。
思ってたんとちがう、夫との子育てでした。
さらには、”育児しかしていない”という焦りもありました。
そこで夫の手を借りない範囲でのパートに就きました。
子育て以外の没頭する時間は充実していたし、達成感もありました。
が、自分の体力だけに頼っていた仕事と子育ての両立は長続きしません。
子どもがつないだご縁にも恵まれ、
楽しい日も数えきれないほどたくさんありましたが、
持続できるか、自分が今後取り組んでいきたいことか、
とういう点においては、まだまだ入り口にも立っていませんでした。
4.コロナ
最初の育児から走り続けてきたのでで、一端休憩を決めていました。下の子が幼稚園入園を機に退職、専業主婦になりました。
と同時に、コロナによる閉塞感でいっぱいの生活が始まります。辞めない方がよかったかも、早まったなと思いました。
が、戻る選択肢もなかったので、
ここは切り替えて、将来を見据えて準備をすることに。
その時できることに集中しました。
これまでの自分をざっと振り返ると、
持続可能な働き方ができていませんでした。
結果、イメージしていたことと現実とにズレが生じ、修正も日々の生活で手一杯でできないままなんとか走っていたという感じです。
まさに「思ってたんとちがう」の連続。
そして思いもよらなかったコロナの出現。
全人類にとっての「思ってたんとちがう」ではないでしょうか。
コロナ禍は本当に急に始まりました。とにかく分からないことが多すぎました。
でも終わりもあると思っていたので、最初の頃は、
コロナが終わったらやりたいことを考えて数年後の自分をイメージした方が多いのではないでしょうか。が、なかなか終わりがみえず…
徐々にコロナでもやれること、コロナだから必要なこと、”withコロナ”を
意識せざるを得なくなってきたかと思います。
私にとっては、それが子育てです。
子どもが大人になるまでに関わる人の数が減ってしまうことに不安を覚えました。
手を借りる、悩みを分け合う、といったことがしづらくなる親の負担増と、
親や先生以外の大人を知る機会が著しく減るという、子どもへの影響の両面です。
こういったことに2020年、21年は悶々としていました。
ナナメちゃん誕生前夜
転機となったのは、2021年の末、親友との久しぶりのおしゃべりです。
コロナに喝!でコロナビールで乾杯した日、あることを自覚します。
それは…
私は人の暮らしや、生業としていること、たどってきた道を知るのがとても好きということです。
ここをスタート地点に、自分の子どもたち、将来世代のために親世代ができることを考えました。
それが「生きている」をみせることでした。
その後は、
ツイッターで社会を学び、アイディアをノートに書きだす日々。
ある程度まとまったところで家族に思いを話しました。
夕飯の席でロゴとともに発表したナナメちゃんという名前。
これが2022年3月のことです。
長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
本来なら1本目に来そうな記事、機が熟してようやく書き上げることができました(^ 人 ^)続きはまた今度
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