Body Positive vs. Pornography
Body Positiveが強く言われている昨今、BerlinではよくFashionや下着の広告に従来のモデルタイプではなく、様々な体型や身体的特徴、多種多彩なバックグラウンドの人種を採用するようになっている。一方、 Pornographyと評されるものに対する受容は世界的に年々厳しくなっていると思う。乳首や性器、性的表現、様々な性行為のかたちはSNSや様々な表現活動において制限される傾向にある。この二つの流れが逆行しているようで、正直居心地が悪い。Berlinでは、よくDildo Kingと言う、アダルトグッズ屋さんの広告を見る。人気の繁華街の一等地にポップな大人のおもちゃショップが透明のガラス越しにある。公園や湖ですっぽんぽんの人を見ることは珍しくない。子供たちも裸ん坊で公園で遊んでいる。それは年齢関係なく、若い人もお年寄りも、体を鍛えている人もそうじゃない人も、自分の裸体や性行動・性的倒錯に対してナチュラルに捉えている。その風通しの良い世界にいると、性器や乳首、様々な形の性行為が禁じられていく世の中は不自由に思える。なぜそこは隠したり、プライベートな部分として保護されないとダメなのか、さっぱりわからない。そこの提示の否定は私たち生命の否定に思ってしまう。ゆがんだ個人主義とキリスト教的性に対する考察が捻れて、この不自由な世界になっているようでつらい。赤ちゃんの時から、10代も、そのあとも、性に対して、あらゆる体の部位に対しておおらかであって欲しい。性器や性的部位、性的表現は悪でも恥部でもない。ましてや搾取されるものでもない。大切なのはそこにいる当人同士の尊敬し合う気持ちと人間賛美であろう。性とは生命の源であり、本来生きる上の喜びであるのだから。
追記 私は幼少期から、いわゆる性的被害を受けてきた人間です。だからこそ、なぜその時にお互いを尊敬しあえる関係性を作れなかったかと言うことを後悔しています。その術もそのようなアイデアすら思いつきませんでした。しかも、教えてもらうことすらなかった。ただ単に勝手に傷つくように擦り込まれていただけなのです。大切なのは年齢に関係なく、お互いを尊敬・尊重し合う社会を作ること。それを幼少期からはっきりと育める環境を社会全体が作ること。そっちの方が社会が成熟するのだと思います。愛に年齢も性別も国籍も関係ないのですから。