我慢なんてしなければよかったの?
ぐっと堪えて我慢しないといけないことがある。
傷ついてもあははと笑って流さなけらばならない時もあるし、
嫌だなと思いながらもやらなければならないことはあるし
一番偉い人が右だと言ったら右を向かねばならない時もある。
「辛くなるなら我慢なんてしなければよかったんだよ」そうやって、正論を振りかざせば、ひと吹きで倒れる。
本当に気持ちを押さえ込んで我慢しなければならないことだったのかと考えてみると、そうでもないのかもしれない。本意ではないことがあったときに自分を守るためには、意見を主張することが褒められるべき行為だったのかもしれない。
しかし、それがただ1つの答えだろうか。
私は、どちらかというと正論を振りかざす方で「嫌なら嫌だと言えばいい、言わないから良いと思ってるんだ」と解釈するかなり横暴なタイプだったのだけど、そのくせ自分のしている我慢については、「言えない“嫌”」をなかったことにしてやり過ごしていた。
というより、「嫌だと言えないこともあるのを“知らんぷり”することで、自分にとっていいように誰かを利用するためにその正論を使っていた」そう言う方が正しいかもしれない。
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ある人は言った。「今までぐっと堪えてその一言を発することができなかったからこそ、培われた言葉も多い。」
今なら言葉にできるんじゃないか。そう思った時にはもう頭の中で問題は解決していて、あとはその通りに生きるだけだった。自分の我慢はしっかり言葉になって意識の中にあった。これからは、私の我慢もあなたの我慢も「見ないようにする」なんてしない。
我慢は、良いことだとは思わない。
我慢は、人生に必要不可欠なものだとも思わない。
でも、我慢することがある人生も悪くないと思う。
我慢なんてせず自分を曲げずに主張してまっすぐ歩んできた人の言葉に、大きく心を揺さぶられることがあると私はただ遠回りをしただけなのだと思うこともある。ただぽろっとでた一言に本質が見抜かれているのを感じると、あぁ私のあの時間はなんだったんだろうと。
結局、自分の人生を肯定してあげたいだけなのかもしれないと思いながらも、あの頃の私と支えてくれたみんなに感謝している。