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ひと色展の余韻/赤い靴はいてた女の子が見ている風景と不思議なご縁


1.赤い靴の女の子に逢いに

大倉山のひと色展最終日(10月1日)を観に行く前から、翌週横浜へ行く予定が既に入っていた。
ひと色展で闇夜のカラスさんの作品を読んでいたので、これは実物の『赤い靴はいてた女の子』を見ずには帰れん!との思いは募り…
すぐ近くでの用事を済ませて、山下公園へ向かった。

懐かしの氷川丸、昔この中でのパーティーにお呼ばれしたな。
この観光地でのひとときを楽しむたくさんの人々、
私にはなじみの薄い、みなとみらいの建物群は、もう横浜の観光のシンボルとして定着して長いけれど、私が親しんだ横浜ではない。
だから懐かしくはない。


赤い靴のモデルの女の子は確か、きみちゃんという名前だった。
幼くして亡くなった妹もきみちゃんだったので、何となく覚えていた。

横浜というと、山下公園、赤い靴はいてた女の子…と連想するのは、昭和世代の人たちのみかもしれないが、親子が離れ離れになる悲しい話は後世にも残していかなければならないと思っている。
幸い有名な銅像が現存しているが、同行したおばに教えてもらわなかったら見過ごすところ。


きみちゃんは、遠くを見つめている。遠くの異国か、離れてしまった家族のことを思うのか。
みなとみらいのきらびやかな建物が建つずっとずっと前から。

女の子の像の向こうにはみなとみらいの景色が広がる
みなとみらいの観覧車ができた横浜博は、30年以上前だけど…

闇夜のカラスさんは、親子や親しい人々が別れ別れになることの切なさや悲しい別れを生み出す戦争を起こしてはならないことも綴っている。

2.亡き父の友人からの戦争話とおじ・おばの体験談

これまた偶然が連鎖して、遠方に住む、亡くなった父の昔の友人と先日横浜で会うことができた。会えるきっかけになったのは、父へ送ってくれた絵葉書が転送して私のもとに届き、その方に関心があり覚えて保存していたから…

あれからまた月日が流れ、詳細は省略するが、あるイベントで関東へいらしゃることがわかり、昨年からお付き合いの始まった方が繋いでくださり、会えることになったのだ。93歳のその方と。

これもまさに奇跡の再会。会えることになったとわかったのは、亡き父のお墓参りをした日だというのも、何だか偶然ではないような気がする。
お墓で父に「○○さんに会えるかもしれないよ」と報告してきたから。


昨年は、90代のおじとおばから戦争体験談を聴く機会があった。
大空襲が静まった後、現みなとみらい周辺の軍需工場・職場から外の気配を見たら、そこには建物も何もなく、ただ焼け野原が広がっていた。
人の気配がなくシーンとした音のない街を歩いて自宅にたどり着いたら、周囲の街含めすっかり全て焼け落ちていたと。
すすだらけで真っ黒になった顔、身なりで姉弟で再会できた時は、抱き合って大声を上げ泣いたそうだ。ドラマのような光景が目に浮かぶ。
でもそれはドラマではない、現実の話。

それは大空襲当日の話だ。それだけではない。それ以降は生活が一変してしまう。住む家も食べ物、衣服も何一つ残らず、すべて失くしてしまったのだから。


再会した父の友人からは、旧制中学で入学してから二年間、勉強したかったのに勉強できなかったこと、軍需工場で手伝いをさせられたこと、大空襲で家が全壊してしまったのでお母様の東北の実家に転居し、私の父とは一緒に卒業できなかったこと、行った先でもよそ者扱いされたことなどを聞いた。明るく元気な方だったので、こちらを思ってか暗い話はされなかった。

戦争を実体験として語れる方は少なくなっている。
世界の平和を思いながら、私もそれらの話を忘れずにいようと思う。

3.人との縁は不思議なもの

父と友人は、連絡が途絶えていたが60代頃だろうか?関西方面に父が行き、学友3人で再会したそうだ。
その話は何となく聞いていたが、名前も知らず詳しいことは何も知らず、長い年月を超えて、父の死後思い出話ができるとは。

 尋ねてみたら、誕生日が私と二日違いで、父の友人の誕生日は、両親の結婚記念日と同じだった。

そういう偶然の巡り合わせが、最近当たり前に私の周りに寄ってくる。
人生の終わりが近づいている?とは思いたくないから、
このまま楽しい思い出に繋げていこう。

赤い靴からいろいろな思いに心を馳せることができた。

ひと色展との巡り合わせも、不思議な勢いで私を巻き込んだ。


闇夜のカラスさんと、横浜にありがとう。



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