〈故郷〉を語る―語りの場と〈故郷〉の誕生
私を語るとき…私の存在が危機にあるとき
家族〃 …家族が崩れる方向に向かっているとき
自由…あらゆる規範から解放されたもの
「自由に生きたらいいよ」=「自由に生きねば」→規範
〈人の移動と近代〉
出郷…自分の意志でふるさとを出ること。自発的、明確な意思
離郷…自分の意志と関係なくふるさとを離れること。ドラマになりやすい(例:砂の器)
この中間がこの講義で大切
出郷…①push項目:貧困(多子社会。長子相続性)
②pull項目:就業機会、都市の魅力(大正期以降の話)
離郷…③認 識 項目:世界観の転換
貧しいから外にでる、就職しに外にでるのは都会の情報(魅力)を知らないと行かない
郊外…交通の便がない、アアミューズメントもない。ないないづくしで不在が語られる。私たちに郊外というボキャブラリーがないため田舎という。
→ないないづくしだが、私たちは自分のまちが嫌いではない。出ようともしない。
〈故郷〉を語る―語りの場と〈故郷〉の誕生
イベント、サクラや富士山、様々な方法で日本を印象づける
→国民国家の形成。逆にこれをしないと形成されない。
何度もうるさく言われるもの→なくなりつつある 例)愛国心
消えかけているものほど語られる。
・故郷、が盛んに語られた時代。 例)災害時、時代の節目
1920~1930S 同郷会の設立ラッシュ。故郷の共有(語り場)
「ふるさとの風景と歴史をふるさとの言葉で語る」
①風景を語る―空間の共有
②歴史を語る―時間の共有
同卿会ができた理由
①相互扶助(働き口、宿探しなど)
②故郷確認の場。語り合うことによって自身が〇〇村の者であるというアイデンティティの確立
故郷…自分の置き場所
都市…私以外の他社との場
風景=ふるさとの風景、という概念
語るためにボキャブラリーいる→人間のボキャブラリー限られている
→限られたボキャブラリーの中で肯定的に語らなければならない(美しい風景、偉大な風景)
→「他者」に対して語らなければならない。異なる出身地の人とコミュニケーションをとるために
都市的規範(他者とみだりに関わってはならない)
市民社会規範(親切…席をゆずる)
→席をゆずるときにためらうのは上記の葛藤故に
決まり文句の風景=ノスタルジア「懐かしい」「かつてあった…今はない」
風景が額縁におさめられ、切り取られている…「枠」認識 例)写真、窓、鏡
〈真珠化〉
日本人はふつう、よく言われるように感情を紛らわせたり忘れたりするために歌うのではない。むしろ正反対にこれらの感情を一層深め、純粋化し極限化し対象化することによって不安の深淵を確かめ、心の動揺を収束する機能が大きいのではあるまいか。(見田1967)
真珠貝が体内につきささるものを丸く粘液で覆ってしまうように心の痛みを美によって包んで対象化し、悲しみを悲しみのままに美によって価値づけようとする、心の動きなのである。
・不安を不安とはおいておかない
→悲しみの真珠化
不幸を不幸としてうけいれ美しいものとして歌う(現実との折り合い付け)
→これもある種の強さではないか
〈日本的孤独〉とは孤独を共有する連帯
マイナス感情-美(唄う対象)現実を飼いならす営為 「本当の私は故郷に」「現実はかりそめのもの」
故郷の形成には近代日本の歩みが凝縮されている。民衆たちの唄いや語りといった生活実践がそこに刻印されている。そして故郷は都市の形成とともに密接に連動している。
空間や場所は人間に先立って存在するものではなく、人間の関与を通して形成されるものである。そしてこの過程が歴史を構成する。空間や時間といったカテゴリーをもともとそこにあるものとして考えず、人間的営為の産物として考える。
<故郷>の誕生>
ほっといても誕生するものではない。一定の行為(何度も何度も唄う語ることによる)がふるさとを生む。
*観光のモチーフ
①ノスタルジア…かつてあった、今はない
②エキゾティシズム…見たことがない、我々の日常とは異なる 例)沖縄のサンディエゴの花
③スペクタクル…目をみはるような 例)スカイツリー(巨大)
この①~③を計画的にパッケージしたものがディズニーランド
①ウエスタンランド ②アマゾン ③シンデレラ城
上へ行けば行くほど天井低く→遠近法で高く感じる
迷路、ラピリンス要素で見通せない
・中途半端な甘さは流行歌をうむ
もう二度と帰ることができない、帰るもんか…故郷への唄はうまれない=自分の意志が明確。文学や絵画などもっと明作がうまれる
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