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世界平和をあきらめた日


隠れ繊細という概念との出会い


派遣社員として働く日々。私は、自分の学歴も資格も何の意味も持たない環境の中で、ただの使い捨てのコマとして扱われる日常に身を置いていました。自己肯定感を保つことさえ難しい状況で、「どうして私はここにいるのだろう」と自問する日々。それでも、何かを掴もうと心を保つのが精一杯でした。

そんなある日、私は「隠れ繊細」という言葉に出会いました。その概念を紹介する本を手に取ったとき、私は思わず息を呑みました。
「これだ……」
その瞬間、それまでの自分の生きづらさの理由が、一気に腑に落ちたのです。

「隠れ繊細」で解けた謎


私は子どもの頃から、人間関係や環境において、目には見えない部分で多くのストレスを感じてきました。人の表情や声のトーン、場の空気感など、周囲が気づかないような微細なものまで敏感に察知してしまう。そして、心のどこかで「こんなことを感じるのは私だけだ」と思い込み、自分を責めることが多かったのです。

「隠れ繊細」とは、まさにその私の特性を表すものでした。感受性が強いのに、それを隠そうとする――その両立が、私の生きづらさの正体だったのです。

この本を読み進めるうちに、私はこれまでの人生の謎が解けていく感覚を覚えました。「もう探究の必要はない」、そう思えるほど、私の心は軽くなりました。それは、長い旅の果てにようやくたどり着いた答えでした。

そしてコロナ禍へ


しかし、その後に訪れたコロナ禍は、私の世界を再び揺るがしました。娘のアトピー性皮膚炎をきっかけに実践してきた健康法――薬を使わない、過度な消毒を避ける、自然治癒力を信じる。そのすべてが、この新しい「常識」によって否定されていきました。

人々が当然のようにマスクを着け、ワクチンを接種し、手を消毒する姿。それが社会全体の「正義」とされ、異を唱えることが許されない空気が広がっていきました。

その光景を目にしたとき、私は心の奥底で思いました。
「このまま人類は滅亡するのではないか」

この世界では、私が信じてきたことも、学んできたことも、すべてが無価値なものになってしまったように感じました。

「世界平和」のビジョンの終焉


コロナ禍は、阿蘇で受け取った「世界平和」のビジョンも終焉を迎えることになりました。
かつて見たピンク色の波動が広がる地球のイメージや、人々が心と体のつながりを取り戻す未来。それらは、コロナ禍の現実の中で、私にとって単なる幻想に過ぎないと感じるようになったのです。

それとともに、私は自分自身の存在意義も見失いました。**「私は何のためにここにいるのか?」**という問いに答える力を失い、ただ日々を過ごすだけの生活が始まりました。

『プラン75』と自分を重ねる


そんな中で観た映画『プラン75』。
高齢者が自ら人生の終わりを選択する未来社会を描いたその映画は、私に強烈な衝撃を与えました。
「ああ、私もこうなるのかな」
映画の登場人物たちが、静かにその選択を受け入れる姿。それは、まるで私自身の未来を映し出しているように思えました。

小さな楽しみを見つけるという選択


コロナ禍で生きがいを失い、『プラン75』を観たことで未来に希望を見いだせなくなった私。それでも、日々の生活を続ける中で、私は一つの結論にたどり着きました。

「大きな夢ではなく、小さな楽しみを見つけること。」

庭の花を眺め、好きな本を読む。静かに流れる季節を感じる。おいしいものを食べる――そんな小さな楽しみを一つひとつ積み重ねることで、私は自分を保つ術を学びました。

かつては人類を救いたいと夢見ていた私が、今は自分自身を救うための時間を大切にする。そんなおとなしい生き方に落ち着いたのです。

それでも残る問い


それでも、心の片隅には小さな声が残っています。
「まだ、私にできることはあるのではないか?」
その問いに向き合う日が来るのかはわかりません。ただ、今は静かに暮らしながら、もう少し先の未来を見据えていこうと思っています。いえ、そう思っていました。

まだ夢の途中

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