触れれば光の花が散り、描けば光の魚が泳ぐ [ チームラボ・アート展(秋田)を観覧して ]
花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ。
そう、語ったのは井伏鱒二だったか。
華麗に形を成したものが唐突に死を迎えることもある。出会った人とは必ず別れなければいけない。
人生の本質は変化だと、僕はこの詞に学んだ。
人生は連続する変化の総体だ。
その変化は、僕らが主体となって起こす事象に他ならない。
例えば僕が誰かに電話をする時、物質的な事象として音が発生し、そしてその音を受け取る誰かの存在を求める。
例えば僕が何かを学ぶとき、知識は不可視の存在として脳内に蓄積し、そして可視的な行動を起こす種と成る。
芸術は不連続な一瞬の写生だ。
変化を瞬間的に捉え、その内在する価値を最高度まで高めたものだ。
例えば人物を描く時、そこに描かれるのは変容し続ける人間のある一点における姿だ。
例えば風景を描く時、そこに描かれるのは生と死の連環を停止させた上で切り取った姿だ。
人生は、変容し続ける。芸術は、停止し続ける。
僕は深く考えることもなく、そんな観念を持っていた。
けれども今日、その観念を揺さぶられた。
芸術もまた、変容し得るのだと知った。
チームラボ。
超主観的空間というテーマを持って、彼らは芸術を想像する。
そこに広がるのは、鑑賞者を鑑賞者という枠組みから追放しようとする試みだ。
彼らの作り出す空間の中では、鑑賞者は鑑賞者であると同時に、芸術の創造者であることを求められる。
プログラムにより作り出される種々の光。
その光は常に流動する。蠕動する。軌跡は軌跡としてのみ存在し、導としての役を果たさない。
そしてそれは、鑑賞者の存在によりさらに変容する。
阻めば光の文字は消え、触れれば光の花が散り、描けば光の魚が泳ぐ。
芸術とは観るもの、そういう固定的な観念を彼らは見事に壊してくれた。
あるいは、芸術とは創るものだと、彼らは僕らに思い出させてくれた。
ここでふと、では芸術とはそもそも何なのだろうと疑問に思い、調べてみる。
芸術(げいじゅつ、希: η τεχνη、 techné、羅: ars) とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。 (Wikipedia)
表現物と鑑賞者の、相互作用。
その真の意味での達成が、ここに成っていると強く感じた。
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