幸せは努力の先にしか無いという幻想
狭き門
「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし」
新約聖書 マタイ伝第7章
聖書をちゃんと読んだことがある人は少ないだろうし、僕も読んだことはない。
けれど以前、アンドレ・ジッドの「狭き門」を読んだ時に、僕はこの言葉を知った。
解読するまでもないが、安楽な道はよくない、険しい道こそ正しいものだ、なんてことを説く言葉だ。
僕はこの言葉は割と好きで、自分に試練を課すことは良いことだと思っていた。いや、今も思っている。
けれども今日、僕はこの言葉に疑いをむけつつある。
東京と秋田
僕は昨日から故郷の秋田に帰ってきている。東京と比べてこの土地は、とても涼しい。この記事も、家の外に椅子を引っ張り出して書いている。
僕の父母は、あらゆることに肯定的だ。
僕が転職をしようと思うと告げた時も(僕は教師からプログラマーになった)、何に転職するかを聞く前から、僕の判断を尊重すると言って応援してくれた。
僕の家庭はさほど裕福ではない。父母は共に働いているが景気が良いと言える仕事に就いている訳ではないし、父母自身も向上心を持って働くというタイプではない。
けれども不思議なことに、彼らはそれで結構幸せそうなのだ。
僕は狭き門より入れ、を信じている訳だから、父母が幸せそうであるのが不可解に思えた。彼らは特別自己の向上に努めている訳でも、何か譲れないものを持ちながら生きているようには見えなかったからだ(もちろん、種々の苦しみはあると思うけれど)。
幸せとは努力の先にしか存在し得ないはず。けれども父母はすでにそこに到達しているように見えるのはどういうわけか。
そう考えたら、道を間違っているのは僕の方ではないかと思えてきた。
人の悩みを可視化するもの
どうしたら幸せになれるだろうと考える人は、僕だけではないだろう。
その時、幸せとは何かを自分で考え出せる人、もしくはその過程を明確にイメージせずに無闇矢鱈に行進する人は、自分なりの幸せに到達できるようだ。僕の父母のように。
けれども、そこで「幸せになる方法」なんていうものを他者に求めようとすると、世界の網に絡め取られる。僕のように。
最近読んだ本に、こういう言葉があった。
彼らは困っていないから宗教に頼らないのです。ならば、彼らを困らせれば良いのです。(中略)
現代において、この手法でもっとも成功している事例が「エコ」というアイデアでしょう。エコは私たちを常に「困った状態」にしています。このまま手をこまねいていると、近い将来地球環境が悪化して住めなくなってしまいますよ。私たちは既に困った状態にあるんですよ。だから、私たちは危機感を持ってエコに取り組まなければならないのですよ、とエコは言っているわけです。
「完全教祖マニュアル」 (ちくま新書)
僕は幸せになりたいと思っているだけで、別に困っている訳ではなかった。
けれどもそこで世界は、こういう言葉を持ちかけ、進むべき道を僕に提案してくる。
「楽に幸せになれるはずがないだろう。幸せになりたければ苦労しなければならない」と。
その瞬間、困っていなかった僕は唐突に困りだす訳だ。このままではいけない、と。
商業主義を忌避し、幸福なんていう不可視の理想を求めていたはずが、いつのまにか商業主義の根幹である需要と供給のサイクルに飲み込まれていた。
よく居る若者の、出来上がり。
内なる需要への供給を他者に委託するということ
そう考えてみれば、今まで親切だと思っていた世界が、急に悪魔のように思えてきた。
「あなたが美しくなるためのお手伝いをします」と謳うクリニックは、「あなたを幸せにします」という言葉で以って、「今のあなたは幸せではない」という催眠を僕たちにかけようとして居る。
「未経験のあなたを立派なプログラマーにします」と謳うスクールは、「あなたの自発性を応援します」という言葉で以って、今自分のうちに芽生えようとしていた自発性を刈り取ろうとしてくる。
多分、この世界では、大事なことを人に任せてはいけないのだろう。
ここには、人の大事なものを探し周り、奪い取った上で売りつけてくる獣が、あまりに多い。
自分の大事なものは、自分で探さなければ。
自分の欲しいものは、自分で手に入れねば。
そんなことを思った、夏休み初日。不穏ですね。
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