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劇場にいなくてもいい劇作家が、初めて劇場で働く

2018.09.06
舞台芸術に関わることを始めてから7年の月日が経ちます。最初は役者になりたい、と思い演技の勉強を始めてから束の間、気がつけば今では劇作家志望。スタジオや稽古場でもがいていた私は、気付けば人に囲まれることなく机に向かって地味に、それはもう本当に地味に、書き続けなくてはいけない作家という職業を目指すことを決めました。7年前の私は、今後7年間演劇を続けていくこと、大学に入っても演劇にのめり込み続けること、とっても素敵な人から君は劇作家になれ、と言われること、そしてそれにまだ飽きることもなく、きっと一生飽き続けないだろうという確信がある2018年の私を想像していないと思います。私は演劇を、劇場を、この芸術を、自分の命と同じくらい大切に思います。この気持ちだけは16の秋からずっと変わらない、本当に大切なもの。恋人と3ヶ月も続かない飽きっぽい私が唯一続けたいと思えるものが演劇。

海外の小劇場は、小劇場自身が上演演目の選定やマネジメントをしているところが多いみたい。だから劇場で働いているんだけれど、ある意味劇団で働いているような気分。ロンドンのEarl’s Courtと言う駅から徒歩10分ほど。一階にはおしゃれなパブがあり、二階が劇場。プラスチックカップならお酒も劇場内にも持ち込み可能。そんないかにもオフウエストエンドな劇場。ここに申し込んだ理由はマクドナーのピローマンの世界初のリーディングが行われた劇場だったから。

ここに来るまで気付かなかったのは、私は劇場にあまり縁のない人間だった、ということ。演劇をやっているくせに。なぜかと言うと、私は劇場にいなくてもいい劇作家だから。劇作家にも色々なタイプがいて、演出を兼ねる人もいれば役者をやる人もいる。器用な人はどちらもやるだろうし、劇団の宣伝の広告塔になったり、もっと違うジャンルのお仕事をしてしまう人もいるかもしれない。でも、私は劇作家であり、劇作家でしかない。昔から、自分の苗字にも入っている1という数字が好きで、私はそれにこだわる癖が極端に強い。やることは1つだけに絞りたいし、そこに絞りたいと思えるものでなければやりたくない。それが私にとって書くことだったんだと思う。私は劇作家以外の何者でもありたくないし、演出家や役者じゃない。そう思った大学二年生の春、私はずっと続けていた演技やダンスのレッスンへの興味を根こそぎ失った。ああ、作家になるんだ、って物凄く強い衝動を抱えてしまったから。

そして気づいたのは、劇作家は劇場にいなくてもいい、ということ。稽古場にもいなくていい。役者とも話さなくていい。演出家とも、別に話さなくてもいい。時と場合によるけれど、書くというのはそういうこと。演劇という生身の人を大量に要する芸術の中で、劇作家は唯一死んでいてもいい。今まで稽古場にいなくてはいけない役者という立場で舞台に関わっていたからこそ、その変化に一瞬だけついていけなかった。私がいなくても稽古や本番は進んでいく。書くときは大抵一人でうんうん唸りながら、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤で、太ったり、痩せたり、泣いたり、叫んだりしながら、でもそれに誰も気付きもしない中で書かなくちゃいけない。人と関わることが大好きで演劇を始めたのに、しまった。人と関わらない作家を選んでしまった。でも、そんな孤独も心の底から好きだったし、悪いところも引っくるめて劇作という行為に深く深く、恋をしてしまったから、もう私は劇場や人に縁がなくてもいい、と思うのも本当で。矛盾でいっぱいだけど。

そんな中で、劇場で、劇団で働く、という決意をしました。新しい演劇との関わり方を探ってみたかった。大好きなブロードウェイとウエストエンドの劇場にいくつか申し込んで、縁があって今働いているフィンバローシアターに決まりました。とっても可愛い劇場で、すでに愛着が湧いています。そして、私はこの劇場で今までにないくらい演劇の「生」を感じています。

つい先週まで上演されていたのは、Homos, or Everyone in America. タイトルから予想できる通り、ホモセクシュアルについての繊細なセリフと鬼のように飛び回る時間軸が魅力的なお芝居。そして昨日からプレビューが始まった、Square Rounds. 劇場内から聞こえる音は、愛の口論から銃声に変わる。「フラッシュライト・大きな音・過激なビジュアルに注意」という警告まで貼られている第一次世界大戦についてのお芝居。

研修の身である私は、今日は劇場の入り口でチケットもぎり。演劇を初めて七年目、20作品ほどに関わってきたのに、チケットもぎりは人生初。携帯の電源はオフにして、劇の途中の再入場はできません、ショーを楽しんでね…決まったセリフを口にして、お客様を中に見送る。グラスに入ったお酒を中へ持って行こうとする客には、隣に準備されたプラスチックのコップを勧める。ワインボトルを持ち込もうとしたお客様に、芝居が面白くなくてもこれを投げないよ、だから中へ持っていっていいだろう?なんて冗談で言われちゃう。いや、プラスチックの方に入れてください。ルールなんで…

入場開始の5分前、ぼうっと3ポンドで売るパンフレットを手に抱えながら劇場の入り口で立ち尽くしていた。照明・音響のスタッフさん達が、まだまだ入念に確認中。ステージマネージャーはまるでジムに行くようなスポーティーな格好で髪をひっつめにして走り回っているし、役者さんはそんな彼らとは対照的に物凄くリラックスしている。私はパンフレットをパラパラと読みながら、その中に大きく掲載されている劇作家の顔を見る。初老の男性。彼もこの劇場に来るのかな、なんて考えるけど、多分来ない気がする。劇作家が劇場にいるのはとてもレアなこと。

入場開始するよ、と言われて劇場内の色々なことを確認する慌ただしい声は一瞬で消える。そして、客を迎えるための音楽が鳴り、私は一瞬で鳥肌が立つ。大袈裟だろう、と言われてしまいそうだけれど、本当に鳥肌が立った。私が立つ場所から頭を少しだけ傾けると劇場のなかが見える。青い、怪しげな暗いライトで照らされた客席と、なんとも言えない、別世界へ誘う不気味な音楽。私の横には大きな窓があるから、左の耳からは道路を走る車の音が聞こえる。でも、右の耳からは劇場の魔法が耐えられないほど侵入してくる。ここで、これから第一次世界大戦下を生きた人間が生きる。そこで、演劇が好きだ、と馬鹿正直な感想が1つ、頭の中で浮かぶ。

観客を全員いれた後、衣装に身を包んだ役者がぞろぞろと劇場の入り口へ入ってくる。観客が入った入り口からキャストが入場するという演出らしい。古めかしい衣装に身を包んだキャスト達はとってもチャーミングで、幸運を祈ってね、とか、ありがとう、とお礼を言いながら劇場内に吸い込まれるように入って行く。劇場に入った瞬間に、その世界、役に入るのに、その10秒前までは役者本人である。改めて役者という仕事の不思議さに魅了されてしまったし、頑張れ、と心の中で思わず応援する。

お芝居が始まる。劇場管理人がやってきて遅刻者が来るかもしれないからここで数分待とう、と言われその場で2人で劇場内の音を聞く。お芝居見た?と聞くとまだ、と答える彼。「フラッシュライト・大きな音・過激なビジュアルに注意」このお芝居、そんなに怖いのかな?と聞くと、念のためだよ、そんなに過激じゃないだろう、と笑って答えてくれる。そして、誰も来ないことを確認してからオフィスへと戻る。オフィスは楽屋と繋がっている。

楽屋をちらっと覗くと、ステージマネージャーが小道具や衣装を持ち、モニターを見つめながら座ることなく動き続けている。彼女が動く度に、ラックにかかっている様々な衣装が揺れる、それは白衣だっり鮮やかなワンピースだったり、白のブラウスだったりする。鏡の前には食べかけのリンゴや充電中の携帯、たくさんの書き込みのあるボロボロの台本。生が充満する舞台の裏側。私はここがとても好き。生きている人間を生きている人間が演じ、それを生きている人間が支える。ここまで、生きている人間が関わらないと成り立たない演劇はやっぱり、ただの生の塊でしかない。

オフィスは、LUSHの匂いがする。例えなんかじゃなくて、本当にLUSHの匂い。Homos or Everyone in Americaでは100、200ものLUSHのバスボンブが置かれるというとっても変わったセットだった。劇場内は(私にとっては)とってもいい匂いだったけれど、劇場管理人の彼は当初はひどく酔ったらしい。そんな強烈なあの匂いがオフィスにも残っている。「スタッフ、持ち帰っていいよ!」と書かれた箱の中には色とりどりのバスボンブが入っていて、思わず笑ってしまう。Get Out(日本語で言う、所謂バラシ)の際にもスタッフが大量に持ち帰ったらしいけれど、それでもまだ残っているらしい。それにしても全てが本物のLUSHのバスボンブだと思わなかった、と言うと、LUSHがスポンサーの公演だったという。箱を覗き匂いを嗅ぐ。日本の家族と浴槽が待っている家にこれから帰るなら、1つや2つ貰うんだけどな、と思い箱をあった場所に置く。お芝居の中で主役の男性がLUSHに立ち寄るシーンがある。それは、ゲイの恋人がホモフォビアの通り魔に刺されて入院してしまったためのお見舞いにバスボンブを買いに来た、いうもの。私はオフィスにいながら、あの役の男性のことを思い出す。恋人を思い、涙を流していたあの役者さん、あの役のことを、あの劇場内で嗅いだLUSHと同じ匂いを嗅ぎながら。前のお芝居の残り香が香っているオフィスで、銃声を聞く。叫び声、泣き声、不気味な歌声、嘔吐する苦しそうな音。演劇は時間芸術というけど、実は全然そんなことないんじゃないか、なんて思う。見えないところで、劇場には今まで上演されたお芝居が積み木のように積み重なっていているんじゃないか、って。

お芝居が終わり、劇場を後にする観客におやすみを言って見送り、役者さんにはお疲れ様を言う。劇場管理人と、観客全員が出て行ったばかりの劇場内を点検し、その椅子に触れるとまだ温度が残っているのを感じる。激しかったお芝居もおしまい。役者さんは街へと帰る人間に戻り、劇場内に存在していた世界はどこか他の世界へ解けるように消えて行く。気付けば私は客席で一人になっていて、生の塊だった劇場は一瞬にして孤独という言葉が似合う場所へ変化する。観客も、スタッフも、役者もいない劇場は底が見えないほどに孤独。私は、なんとなく、自分の居場所に、自分の家に、帰って来たような気がする。また1人になった私。また本来の、作家という孤独と向き合わなくてはいけない私。劇場は人のエネルギーを最大限に集めることも、最大限に消滅させることも出来る。小さいスペースの中で、生だって、死だって感じることも出来る。私は、この観客席もステージも空っぽの劇場の中で感じるひとりぼっちの感覚と今後も戦って行きたいし、それと同時にこのとんでもない生の塊へのときめきも忘れたくない。

私は書くことも好きだけれど、それ以前に演劇が好き。これからも、きっと演出家や役者の道を選んだ人よりも劇場や稽古場に縁のない道へと進んで行く。それでも別にいいし、むしろそれがいいかもしれない。帰り道、1人で夜道を歩きながら楽屋に置いてあった食べかけのリンゴや、無造作に縛ってあるステージマネジャーの髪の毛を思い出す。16歳の秋の自分の気持ちを思い出したような気がして、それがとっても嬉しかった。

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