ドール
短篇
その建物から出てきた人はいつも感情がどこかに飛んでいるようだった。テレビでよく見た欧州の屋敷のようなエキゾチックな建物は、周辺のビルのせいで浮いて見える。玄関の表札には『呉島探偵事務所』とかかっており、私は思わず口を尖らせた。普通の家ならばそんな反応をしなかっただろう。
仕事の休憩中に最近できたカフェに寄った帰りにこの場所に辿り着いた。こんなに目立つ位置で人の多い街にあるのに、この通り一帯は足の覚束ない老人がぽつぽつ歩いているだけだった。会社までの近道じゃなければこんな道は歩かない。そう思えばこの発見はラッキーだった。
探偵と言えば、謎解きやら尾行やら不倫調査やら、私がやっている一般事務よりも気難しい仕事をするイメージがあったが、この探偵事務所を検索すると、どうやらそれ以外にもいろいろと承っているらしい。シンプルなデザインのホームページの所々に可愛らしいキャラクターが仕事内容を紹介している。見れば見るほど謎に包まれている。ただ、私の持っているイメージを払拭している気がするのは確かだった。事務所の社員は二人だけ。簡単なプロフィールはあるが、顔写真は無かった。この大きな建物の中に二人しか居ないらしい。『呉島翔也』『呉島志乃羽』――サイトの隅から隅まで探しても、この二つの名前以外見つからなかった。口コミは五百件以上、五段階で4.7。星評価のみの口コミは4の評価もちらほらみられるが、文章まできっちり書いてある口コミはどれもこれも5の評価である。
――口コミを見て訪問させていただきました。こちらの無理なお願いにも真摯に聞いて下さりありがとうございました。
――所長さんは子供が苦手なタイプの方でしたが、助手さんがその辺りをカバーするように息子と接していただけたのが好印象でした。急ぎで訪問すると所長さんがいらっしゃらなかったので、事務所に行く前には電話を入れた方がよさそうです!
――兄弟二人で探偵業をしている事務所です。所長さんは基本外で活動していると考えた方がいいと思います。助手さんが事務所に滞在して話を聞いてくれるので、いつでも安心して来れます。助手さんの淹れる珈琲はとても美味しいです。
――ここの探偵さんにはよくお世話になっています。こちらのお願い事を何でも聞き入れて下さるのでむしろこちらが心配になってしまうくらいです。この二人の右に出る探偵さんは居ないと思います。
訪問者による写真の投稿も彼らの名刺か外観の写真だけだった。情報量の無さにまるで海岸の波のようなどっちつかずな感情に苛まれた。何よりスパムを疑うレベルでついている口コミには『最強のコンビ』というワードがいくつも連なって書かれていた。『名コンビ』や『仲のいい二人』と言うならまだしも、“最強”とは……。
仕事の合間じゃなければもっと情報を収集したい。この場所が気になって仕方がない。徒歩十分で会社に戻れるとはいえ、お局がいつも「昼休憩が終わる十分前には戻って来なきゃ許さない」と煩いので、これ以上この場所に呆然と居続けることが残念ながら出来ない。そもそも街の一角にある観光地でもなんでもない建物の周辺で用もないのに立ち続けている私の方が不審である。
そもそもこんな風貌の建物を今の今まで知らなかった段階で追求に走るのは危険すぎるだろう。ここに惹きつけられたのも、この建物から泣いて出てきた人がいるからで、もしかしたら評判も脅されてつけられている可能性だって大いにある。そもそも探偵事務所の皮を被ったならず者の溜まり場だとしたらどうなる。それこそ私はこんなところにいる場合ではないだろう。そう考えたら、パンプスを履いた足で全速力が出せた。
しかしその夜。仕事終わりにまたあの屋敷の前に立っていた。昼間とは一風変わって薄暗い通りは、よからぬ獣が飛び出してきそうなほど張り詰めた空気で満たされていた。荒れ果てていて、鴉が円を書いて飛んで、血生臭い匂いがし始めて、髪を毟る老婆が居て、雨が降り続けていれば此処は現代版羅生門である。高校の国語の定番。であれば私が下人である。
そんなことはどうでもいい。この屋敷に入るかどうかが問題なのだ。スマホに表示させた口コミをイマイチ信じ切れないまま。屋敷の前を右往左往するだけで、インターホンも押せず、中に入る事すらも出来ずにいた。少し経つと、スマホの通知が十五分後に雨が降ると予告した。それは困る。今日は傘を持っていなかった。昼間と同じように走り去って時間を無駄にする未来が見え始める。
どうしようか一人で悩み続けていると後方からぼぅっと影が出来た。
「ウチに用ですか?」
若い男の声だった。振り返ると一点の眩い光が目を刺激した。男は私の眩しそうにしていた顔を見てか「あぁ、ごめんなさい」とライトを少し暗くした。そしてまた最初の言葉を口にした。私は固まってしまい何も話せなかった。男は一度首を傾げて、フルフェイスヘルメットを取った。黒いワイシャツ、背は高く、細すぎず、癖のある黒髪の、やはり若い男だった。そこでやっと思い出したように「くれしま、しょうや……さん」と声を出した。そうしたら彼は「はい、呉島翔也と申します」と返した。実を言うと、探偵というイメージだけでガタイのよさそうなおじさんをイメージしていたので、自分の思い違いに困惑している。
「立ち話もあれですから、中入りますか? 雨が降りそうですし」
「あの、『最強』ってどういうことですか……!」
中に入るわけにはいかない、と思って出た言葉で彼を唖然とさせてしまっただろう。彼はまた首を傾げて、少し笑ったような気がした。あらゆる感情が混在しているが、今先頭に立っているのは頭身の毛も太る思いだった。足がすくんで何も出来ずにいる。
こういう時、距離が詰められてきそうだが彼は私のことを見つめ返すだけだった。
「それって僕たちのことですか?」
私は黙って口コミを見せると彼は興味深そうに見て「面白いですね」とまた笑った。ずっと落ち着いているように見えるのは、私が落ち着いていないだけなのだろう。そう思うと、徐々に緊張が解れてきた。
「そろそろ失礼しますね。戻りが遅いとアイツが怒るので。また用があれば遠慮なく入っても大丈夫ですから」
彼はバイクを押して事務所の敷地に入っていった。また今度にしようかなと思っている自分と、ココで行かないとチャンスはもうないかもと思っている自分が戦っている。
心で決め切る頃には身体が先に動いていた。翔也さんには「やはり、面白い人だ」と不思議がられたが、この際どうでもよくなった。屋敷の中はイメージ通りの異国感があり、外の明るさも相まって、舞踏会の優雅な雰囲気もあった。現代版羅生門などと思っていたことが独りで恥ずかしくなる。二人で居座るにはやはり大きすぎる館ではあるが……。廊下を辿っている間、私の独り言を彼は丁寧に解いていた。探偵と名乗っているが探偵っぽくない理由は世間のイメージのせいが大半だということ。この屋敷は数百年以上前に建設されて、外観はほぼ変わらず、内装のリノベーションを数回行って今の形になっていること。
「え、僕が基本的にここに居ないって?」
「口コミにそう書いてありました。日中は依頼で外に出ているのですか?」
「まぁ基本はそうですね。あとは依頼内容によっては志乃羽に振ったりもしているので。いわば適材適所ってやつです」
「二人で依頼をこなすことは無いのですか」
「あるにはあるけど……稀ですね。少し前まではそういった案件を持ってこられたこともあったな。最近はめっきり減りました」
彼はドアを背にして「屋内なのに歩かせてしまって申し訳ない」と言った。とんでもない。むしろ突撃した挙句、引きもせずに馴れ馴れしく色々聞いている自分の方が余程迷惑な人間なのではないかと思っている。
扉の向こうに広がっていたのは、廊下と統一された色味の部屋だった。アーモンドカラーの壁、クリーム色の天井、黒色の家具、入って左にあるソファーには白いワンピースを着せられている女の子の人形――小さくなって横たわっていた。
翔也さんはその白い人形の頭に手を添えて「帰ったぞ」と声をかけた。次に艶やかな溜息が聞こえてきた。羽毛布団に包まれた時のような浮遊感のある声、それでいて寒気を感じさせた。
「あめ、降ってた?」
「まだ降ってないよ。でも降り始めたら長引きそうだ」
人形が喋っている――私の驚嘆は廊下の向こうまで響いた。翔也さんと人形の視線が刺さる。それが余計に身体を強張らせた。
「あぁ、居たの。お客さん」
人形――もとい呉島志乃羽。人間っぽさを一切感じさせない虚っぽな容姿。丁寧に編み込まれたロングヘア、ホイップクリームのような白い肌、ベビーブルーのフリルがついた白いワンピースも相まって、お伽噺から出てきたような雰囲気がする。食べ物に例えるならアイスケーキみたいだ。身長は160センチの私よりも少し目線が高い。むしろ翔也さんと変わらないくらいだ。
「建物見学なら翔也と一緒に回ってくださいね。――私は裏で作業してるから、入るときは直前に電話鳴らしてね。勝手に入ってきたら今日は外で寝てもらうから」
「わかった分かった。いつも悪いな」
彼女は私の方に視線を送らずに、部屋のさらに奥のドアの闇に消えていった。可愛らしい見た目に反して、異常な冷静さと、鋭さを纏った声。個人の人柄と見れば『彼女はこういう人』と纏まるが、目の前にいる翔也さんと比べたときに違和感が仕事をしている。
「どうかしましたか」
「あ、いえ……私より落ち着いていらっしゃる女の子だなぁと思いまして、つい」
「本人に『女の子』って言ったらブチ切れられるので気を付けてください。あー見えて、一応成人女性なので」
30過ぎの私からすれば十分『女の子』である。――
立ち話もなんだからと先ほどまでアイスケーキが横たわっていたソファに座らされた。ダージリンティーを出され、彼もマグカップを片手に「それで」と対面に座った。口コミで見た名刺を渡され暫く彼は世間話をしながら、空気が和むのを待っているようだった。
外ではサラサラと雨が降り始めた。その時を待っていたかのように翔也さんは、
「『最強』の所以でしたっけ」
二言前まで好きな本の話をしたり、仕事の悩みを聞いてもらったり等してもらっていたのに、たった一言で場の空気を席巻した。まるでさっきの志乃羽さんのような虚っぽを私に向けた。また寒気が襲う。これは実は夢で、この場所は入ってはいけない場所だったという冗談であってほしいとも思った。
「貴方は今お仕事でどのようなポジションに置かれてますか」
「私は中堅的なポジションです」
「同期の方に、出世された方は?」
別の部署に二、三人ほど、と応えると彼は「貴方ももうじきそこに届きますよ」と微笑んだ。
「『最強』っていうのはいわば『出世した人』だと思ってください。何らかの理由で特別良い評価をたまたまもらえたラッキーな人とも言えますし、実力で着実に昇りつめた人であるとも言えます」
「お二人はどちらに部類するのですか」
彼は少し困ったように悩み始めた。そして、
「多分両方ですかね。うん、両方です。ここで一つひとつ積み上げて、評価の決め手になるチャンスを虎視眈々と見張って、訪れた瞬間にしっかりと捕らえました。特別良いものを取らないと、周りは意外と見てくれなくて」
「そうなんですね……」
「運だけで続けられた人と実力をつけてきた人はどちらも強いんですよ。――僕もアイツも努力肌という前提で話すなら、そんな回答になりますね」
「天才肌だった場合はまた変わるのですか?」
彼は鼻から大きく息を吸った後に、そりゃぁねぇと視線を逸らした。
「天才にとっての最強は『普通』です」
「ふつう……、どうしてなんですか」
「出来て当たり前だからです。並みの人が十五分ぐらいかけてやっと正解できる難しい問題も数十秒でスラスラ解ける人は、最初に努力をした後はそのレベルを維持し続ける。次第に当たり前になって、自分のそのすごさを驕らなくなる。天才は自分のことを天才って言わないんですよ。努力家もね。――最強って言うのも、周りが勝手に言い出したものであって、呼ばれている人たちが自称したものではないんですよ」
彼は言い終わると同時にギュッと目を閉じた。少し苦しそうにも見える。「大丈夫ですか」と声をかけると、「雨の日はいつもこうで……」と苦笑された。
紳士的で隙の無さそうな姿と、一緒に居たくなるお兄さん的な姿と、つい見守っていたくなる少年のようなあどけない姿……とても“最強”には見えない。それが“最強”。
「今までどんな事件を見てきたんですか?」
「事件……って。探偵ドラマの見過ぎですよ。それは警察の管轄で、僕たちが扱うのはソレが起きる直前までです」
「事件が起きるのを防ぐのが役割……。それってできるんですか」
翔也さんは私の質問に対して無反応だった。呆れを含んだ無表情だ。直ぐに自分の無知を謝罪すると、「冷めたお茶は美味しいですか」と訊ねてきた。声色にはほんのりと熱が含まれていた。
――「ぶぶ漬けでもどないどすか」ってテンションのセリフなのか……?
「あ、あの私そろそろ……」と立ち上がったところで、奥の扉が開いた。中から出てきたアイスケーキが栗饅頭になっている。栗色のベストとスラックス、こげ茶色のワイシャツ、髪は白い羽のついた髪留めで一つに纏められていた。手には衣装に合わせた傘、カバンも背負っている為、これからどこかに行こうとしていることは明白だった。
「刑事さんに呼ばれた。今から行って来る」
志乃羽さんは翔也さんの横に立って十数枚の資料を手渡した。翔也さんは一枚目だけを一通り見て、「そうか。夜道気をつけろよ」とだけ。
「護身用のガジェット連れて行く。――お客さん荷物抱えて立ってるけど、帰るの?」
「え、アッ……、時間も時間ですし……」
オドオドしている私を志乃羽さんはジッと見ていた。その瞳もやはり虚っぽに見える。彼女は何かを察したのかノールックで翔也さんの肩を背後から一発叩いた。
「大事なお客様に失礼するなって言ったのは翔也でしょ。――お客さん、気にしなくていいですから。ここ最近この人は外に出っ放しで脳みそ溶けかけてるので」
翔也さんが言い返そうとするとまた志乃羽さんは彼の耳を引っ張って黙らせていた。
「帰りは徒歩ですか交通機関ですか」
「電車です」
志乃羽さんは「じゃあ通り道ですね」と少し笑った。そこでようやく彼女が人間であることを自覚した。
雨のせいも相まって闇の中を歩いているようだった。コンクリートをコツコツと叩く志乃羽さんのヒールブーツは私のパンプスよりも上品な音がした。
「傘、貸して下さってありがとうございます」
「とんでもない。事務所の周辺で店をしている人たちが勝手に寄こしてきたものです。返しに来なくても良いですからね」
話してみると案外普通の女の子に見える。しかし、普通じゃないところも見えているので、どう会話をしたらいいかが分からない。
「大学生なんですか?」
「いいえ」
「いつから探偵さんなんですか?」
「もう五年くらいですかね」
「中学生から?」
「年齢上はそういうことになりますね」
淡々とQ&Aを繰り返すだけ。T字路を左に曲がると、少し明るくなった。
「私たちの前に居るのはラジコンですか?」
「自立型AIです。色んな事を学習させたうえで自分で動いてます。ドーリィ、丁字路は止まりなさいって何度も言ってるでしょ」
――小さい恐竜型ロボットに話しかけている……!
「護身用のガジェット」って聞いたからてっきり通信機器だと思っていたが、まさかその上の発想に至っているとは思ってもみなかった。それも当たり前のように使いこなしている。
「この向こうの高架を越えたら駅です」
「あ、ありがとうございます」
「とんでもない。――そういえば、翔也と何かありました? あの人、連日の大きな以来のせいで疲れているとはいえ、あんな顔をしていたのは久しぶりに見たので」
事務所に居たときも何となく思っていた。彼女の考察力の高さについて、人を一瞬で油断させる立ち回りについて、私のような並みの人間が理解出来ない行動について。この傘だって、私が傘を持っていないことを伝える前に手渡されたものだ。
「もしかして、『冷めたお茶は美味しいですか』って言われました?」
彼女は私の反応を見て、面白がるように嘲笑した。多分今のは翔也さんに向けたモノだろう。そうだと思いたい。
「アレは、私を呼ぶときに使う言葉なんですよ。よく勘違いされるのでそろそろ変えてほしいんですけどね。依頼の内容によっては私が出るんですけど、基本的に私は裏であの人のサポートをしているので表に出れなくて」
私が思わずよかったぁと溢すと、彼女はすかさず「一時期は近所のカフェのマスターに『ぶぶ漬けと勘違いしたわぁ』と言われましたから」と痛いところを突いてきた。
「でも、どうして話の脈略が分かっているんですか?」
「ある程度は聞こえていますので。それに、直前の動作と状況を見れば8割くらいは汲み取れます」
「すごいですね……」
「慣れました。アナタの仕事と同じです。私が一般事務職なんてやったら、上司に怒られて速攻クビになりそうですから」
――私、一般事務職だっていつ言ったっけ。
「翔也にはできないことを私がやって、私が出来ないことを翔也がやってる。周りが私たちのことを“最強”って呼ぶ理由は片方しかいない時をしっかりと見てないからなんじゃないですかね」
「翔也さんは刑事さんに会わないけど、志乃羽さんは会いに行くみたいな感じですか?」
「広く言えば。――着いちゃいましたね」
喋っていると駅に到着した。訊きたいことが次から次に出てきたのは久しぶりで、話したりない。
改札の前でドーリィが志乃羽さんの肩に乗ってこちらに頭を下げていた。
「あの、志乃羽さんの淹れる珈琲が美味しいと聞きました。今度また伺っても良いですか?」
「良いですよ。昼間は大抵居ますからいつでも」
改札を通ってホームへ向かう階段の途中で振り返ると、彼女は誰かと電話をしながら北出口を抜けた。
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