友部 奈七羽
ベッドの上で目覚めた私は、かろうじて生きていた。 「人間って、案外カンタンには死なないんだな」と思ったのが、私の素直な気持ちだった。 私の病気の発症から、緊急手術になってオストメイトになって身体障がい者になるまでの闘病記です。 自分の病気や障がいを、笑って吹き飛ばす気持ちで書いていますので、天然で楽天的な箇所が出て来ますが、色んな人の心に届けば良いと思います。
緊急手術気が付いた時に私はベッドの上にいた。視界に入ったのは病院の無機質な天井の模様と、かすかに聞こえる看護師さんの声だった。 看護師さんの声よりも、けたたましく鳴る生命維持装置のアラームと、誰か分からないおじさんのうめき声で目が覚めても、体が岩のように重たくて痛い。 『生きているって、つまりはこういうことなんだ』と他人事のように思っていた。声を出そうとしても、誰か分からないおじさんのようなうめき声しか出ない。 「気が付いたんだね、良かった」 私のうめき声が、看護師さ
ホーム病棟は絶対的な安心感~長年の信頼と実績~あの怒涛の手術が終わって、何度も生死の境を彷徨いながら、やっと20日振りにホームへ帰還する事が出来た。 この先、外科とリウマチ免疫内科の先生達と相談しつつ、治療方針を決めて行くらしい。疑問のに思った事や心配事は、看護師さんに聞いてもらって、自分でも退院に向けて調整するのみだ。 ホームの病棟に戻った時点で、担当看護師さんは別の病棟に行ってしまったが、新しく担当についてくれた看護師さんが、これまた話の合う若いお兄ちゃんだった。
ホームにただいま!外科での入院が1か月近く経った頃に、やっと内科への転科が決まった。これでやっと、ホームへ帰れると思ったが、私が内科に入院中に担当だった看護師さんは、配置転換で外科に移ってしまった。 車椅子でホームの病棟に下りた時は、懐かしい顔ぶれに、泣きそうにもなってしまった。 内科に移動しても、外科回診は変わらずに、毎朝傷口からの膿の洗浄と、抜糸は終わっていない。 私だけ毎朝、リウマチ科の先生達の回診と、外科回診だけがある。 同じ部屋の人に申し訳なく思いながら、毎
お腹に付いている異物手術に成功して、ストーマのフランジ交換も自分で出来るようになって来たが、ふとした時に傷口に痛みが走る時がある。 そんな時にパジャマの上からお腹を触ると、パジャマの下には、小さい梅干しの様な突起物が触れる。 そんな事を考えるのは、部屋の中で1人っきりになった時か、夜中の眠れない時で、もれなく私の情緒不安定タイムでもある。 まだ飲み薬も飲めなかった私は、全てが点滴から摂取していた。夜中に眠れなくなると、看護師さんに点滴で睡眠薬を入れて貰うが、眠れないまま
菌だらけ娘と、ご飯の完食縫った傷口から、細菌感染を起こしていて、その膿を検査に出したところ、結局は耐性菌に感染していた。 この耐性菌は、簡単に言うと効く抗生物質がないという事だ。 その間にも食事はお粥を卒業して、一般食になった。退院した後の事を考えると、普通のご飯の方がイメージもしやすい。 まだまだ生活の拠点はベッドの上だったが、食事の時には自分で車椅子に移動して、お昼のワイドショーを観ながら、少し座っている位だった。 その間も、1週間のペースでステロイドを減らして、
内科の主治医は運命共同体内科の主治医は、毎日夕方に来てくれるけど、「一応、内科の所属にはなってる」と言っていた。 ホームシックなっていた私は、早く内科の病棟に戻りたかったが、内科の病棟が埋まっている事と、まだまだ外科での処置が毎日必要な事もあって、カンタンには内科に戻れないらしい。 内科の主治医は、毎日私の所に来てくれては、自分の愚痴を言って、私も今の愚痴を言って、小一時間は愚痴と笑いで賑やかな空間になる。 私が個室だったのもあって、お互いに愚痴は言いたい放題だった。世
行動の範囲も制限がなくフリーに体力と筋肉を付けるという目的と、たまには気分転換したい目的で、行動制限が今までは病棟内だけだったが、その制限もなくなって、下の階にあるコンビニと、コーヒーショップまで行けるようになった。 今まではデイルームまで歩いて、デイルームにある自販機でお茶やジュースを買ったり、テレビカードを買ったり、自分でお水を汲みに行くだけだった。 お風呂には入れなかったものの、その間は看護師さんが洗髪してくれたり、体を拭いてくれていた。 だが、フランジ交換をする
良い大人が大号泣手術が終わってから、毎日、毎朝のお決まりのコース。それは、外科回診。 外科回診のアナウンスが流れると、身構えてしまう。 廊下で外科の先生達の声が大きく聞こえてくると、「いよいよ私の番だな…」とため息が出て、そこから気合いを入れるのが、毎朝の日課でもある。 先頭を切って私の部屋に入ってくるのは、私の主治医なんだが、外科回診は外科の先生が全員来るので、威圧感に圧倒されてしまう。 偉い外科の先生も来れば、若い駆け出しの先生も来るし、看護師さんも来る。 偉い
まずは体力面のトレーニング少しは歩けるようになってきて、行動範囲も少しだけ広がったことによって、作業療法と理学療法のリハビリがスタートした。 原因は、術後廃用症候群らしい。 午前中は作業療法のOTさんが部屋まで来てくれて、無理のない程度にベッド上で体を動かしたり、ベッドから起き上がって、床に立った状態でおもりを持った状態で筋トレをする。 午後からの理学療法のリハビリでは、同じくPTさんが部屋まで来てくれて、病棟のなかを歩いたり、階段の昇り降りをしたりして、短時間では終わ
手術が終わって、私は人工肛門になってしまった。私の衆院していたWOC(ウォック)ナースさんと呼ばれる、皮膚や排泄ケアの認定看護師さんがいる。 術後の集中治療室にも来てくれて、人工肛門(ストーマ)があると身体障がい者になるため、その区役所での手続きや、ストーマ装具を購入するための給付券と、購入する薬局を決めるのにも、出来ない私に変わって、母にも丁寧に教えてくれた。 まず初めに使うストーマのフランジ(便が溜る袋のようなもの)と、術後のストーマの状態を観察してくれて、自分で管理
次々と災難祭りその2日後には、外科病棟のベッドに空きが出て、外科病棟のまたまたナースステーションの近くの個室に移ることが出来た。 だが、そこでも色々と、問題の多い開腹手術患者は、次から次へと先生を悩ませる種を作り続ける。 何も食べていないのに、お腹が張って痛いし、吐き気がする。外科の主治医に言うと、緊急でCT検査をしみたら腸閉塞|だった。 腸が動いていないのが、諸悪の根源と術後の経過も悪かったんだが、すぐに鼻の穴にはイレウスチューブが入れられてしまった。 この鼻から入
手術から5日でやっと個室へ紆余曲折あって、5日目で一般病棟に移れることにはなったが、ナースステーション近くの個室だった。 その間には、血液中の酸素濃度が極端に低くなっていて、レントゲンでは肺に血が溜まった状態だったらしい。 私の意識がもうろうとしている中で、家族はもう一度、外科の主治医から呼び出されて、依然として私の全身状態が悪いのと、最悪な合併症も発症してしまったと、厳しいことが言われていたらしい。 「今週は手術が立て込んでいるので」と、病棟の師長さんは言っていたが、
術後の経過は最悪ですが、なにか?ほとんど誰もいない集中治療室にいると、テレビやスマホもないまま、痛みと闘いながら、ずっとベッド上で過ごすことになってしまう。 そんな時に限って、『タラレバ』の話が頭から離れない。今更になって、自分の生活態度を後悔したところで、何かが戻って来るわけではないし、これが夢で終わることもない。 ・あの時、先生の言うことをもっとちゃんと受け止めていれば・・・。 ・もっと自分の体を労っていれば・・・。 ・あの時、誰かに相談してたら・・・。 まぁ、
手術後の氷は神!!カーテン隙間から覗く日差しも強くなって、集中治療室も騒がしくなってきた。やっと朝だ。 「水はまだ飲めないけど、氷なら舐めて良いよって先生から指示が出ているけれど、舐めてみる?」 喉がカラカラに渇いていた私は、大きく頷いて紙コップの中の氷を、看護師さんが口に一欠片入れてくれた。この時の氷は、大好物のお寿司よりも、イチゴのショートケーキよりも、チョコパイよりも美味しかった。まさにシンプルイズベストだった。 朝になって窓のカーテンが開けられると、「久しぶりね
体が蝕まれても、決定打がなかった私は、ほとんど寝たきりのような生活をしていた。 毎日トイレと洗面所と、ベッドの往復。ステロイドを60ミリ飲んでいる副作用で、夜はほとんど眠れないし、本を読む気力もない。 ずっとテレビを付けっぱなしで、気を紛らわしていたせいで、1枚1000円のテレビカードを何枚買ったかも覚えていない。 事件勃発~緊急手術へ~手術になる2週間前くらいから、お腹が痛いのは事実だったが、10がレベルマックスだとすると、レベル3くらいの痛さだったのが、徐々にレベル
入院生活大腸カメラの結果を受けて、大量のステロイドと抗生物質での治療が始まった。採血やCT検査、大腸カメラで徐々に減量していくことを考えても、退院するまでは3ヶ月近く経ってしまうし、退院出来たとしても自宅療養中に体力を付けて、職場復帰するのが目標だった。 その時点での大きな目標が職場復帰で、目の前の小さな目標を1日1つずつ決めるようにしていた。 『今日はコンビニまで行く』、『今日は洗濯をする』、『この本を読んでしまう』、『病棟内を散歩しよう』といったように、クリア出来る目