私は森のように…
『過去を忘れ心から怒りを消し去れ。どんな強い人間も、そんな重荷に耐え続ける事はできない』
(ネイティブ・アメリカンの格言)
同じ意味の言葉を何人かが言うのを見る。
良い事言ってるなぁと思う。しかし、何故か私の心にはわだかまりが生まれた。
ネイティブ・アメリカンの格言として紹介されたその言葉には、私はわだかまりを感じなかった。ただ、透き通った水の様に私に染み込む。
何が違うんだ。
何が。
言っていることは同じだったはずだ。
同じ心のはずなんだ。
……。
あぁ、そうか。
他の人の言葉は「仕方ないことなんだから、上手く諦めろ」と言われているようで悲しかったのか。
私は今は過去への怒りがあまりない。
でも、過去を思い出し書くこともある。それは大切な事だと思うから。後、伝えたい事だからだ。
しかし、それらの中には確かな怒りがあり、それは確かに私を傷つけ、そして未だ戻ってきては私を苦しめる毒だ。
誰かが同じ思いをしないで済むようにと思いながら、毒に浸かりにいくこともある。
仕方ないとわかっていても、上手く諦めろと言われても、そうはいかないこともある。
そういう人は私の他にも沢山いるだろう。
「今があるじゃないか!」「過去の怒りと決別して、今を謳歌しようじゃないか!」と明るく手を差し伸べてくれる人達よ。有難う。本当は有難うと素直に言えたらいいのに。その優しさがわからない、伝わらないわけじゃないんだよ。
けれど、その明るい光は、心に眩しすぎることがある。ソレを正面から浴び、焦げてしまうこともある。
そんな心が弱いのかと、そんな心が駄目なのかと、どうしてその心を持ってしまったのかと、思ってしまう事もあるんだよ。なんとかしたい。心苦しい。
それがまた、申し訳なく、悔しく、悲しい時がある。
過去にそんな時を過ごしてきた。
若い時は特に。
今は、そんなことはないなと、受け取れることも増えた。それでも、たまに、もどかしく思う。
ネイティブ・アメリカンの上に書いた格言は、雨のようなものだと感じる。勝手に降ってくる。そして、乾いた大地を濡らし、去っていく。
潤えば生命は芽吹く。怒りを沈める事は頑張ってするものじゃないんだ。
『どんな強い人間も、そんな重荷に耐え続ける事はできない』
どんな人間も耐えられないこと。手を伸ばしてくれる人達も耐えられないから「怒り」という重荷を置いて休んでるんだ……と思うと、そりゃ、弱い私は率先して荷物を置かないとね。と思える。
優しい言葉をかけたとき、相手が拒絶するのは、それが強すぎるか、いっぱい過ぎる時なんだ。
私はそう思うから、こうして読む時を選べる媒体を使う。
私は確かに、乗り越えてきた。
自分で掘った落とし穴から這い上がってきた。
そして、世界は広いことを知った。
全部を嫌うなんて無理。
素晴らしい事を知っているから無理。
けれど、それは、私がそうしてこれただけで、
今藻掻き苦しむあなたには、とても苦しいことかもしれない。
同じ道はない。あなたの道はあなたのものだから。
私は何時も此処にある。
通り抜けていくだけでもいいし
遠くから眺めていくだけでもいい。
中まで来たら、お茶を出そう。
なんなら少しお喋りしよう。
私にできる事は
私が私で在る事だけ。
私は此処に在る。森のように。
読んでくれて有難う。
思った事を思ったまま書くと、誰かを傷つけたり、誤解されたりするから、それもなんとも心苦しいのだけれど書きます。
私は森のように不動であり、しかし、変化を続けています。
そんなに豊かな森じゃないけれど、少し散歩するくらいなら楽しいかもしれないですよ。
あなたが遊びに来てくれたら嬉しいです。
森は森だけで生きているわけではないのですから。
また別の記事で会えたらいいなぁ。
寒い日が続きます。体には気をつけて。