その陽光、苦手につき
私は誰かの幸せも、喜びも好きだ。優しさも好きだ。
素敵なこと、好きなこと、見つけたこと、楽しいこと、一生懸命に話してくれるのも好きだ。
けれど
息切れしてるみたいなハァハァして必死なポジティブ論は苦手だ。
鳴き声みたいに「ポジティブ、ポジティブ」な善意お(し)すすめ人が苦手だ。
光を見出し、光に酔いしれた人特有の、言葉は柔らかいし丁寧だが絶対に揺るがない感覚がある。それが、私の毛を逆立てる。これ以上、寄るなと唸らせる。
それは、そう、例えるなら、『ぜーんぶの植物が光を浴びて、その生を全う(伸び切る)出来ますように』と言う願いと共に、自然界から切り離し、人工的に護られた場所で栽培するみたいな、そういう感じのこと。
この平等と慈悲みたいな、それは平和なんじゃないの?と思う人も多い気がしなくもない感情は
私をゾッとさせる。
あ、今ゾッとした。
ポジティブって鳴き声の、善意って名札した人が慈しみを持って近寄ってきそうな気配にゾッとした。
大丈夫。
ポジティブ間に合ってます。
陽だけじゃ育たない。
陰と陽は均等で円になる。
でも光に酔いしれたポジティブ思考の善人に、それは通用しないということを、私は嫌というほど味わってきた。
陰があったら、世界滅びるの?ってくらい、必要な日陰まで消し去ってくるあの感じよ……。
その人だけでポジティブ楽しく納めてくれたら如何ってことない。
元気にのびのび、陽の光の元、葉を伸ばしていく草は微笑ましいだろう。綺麗な緑に生命の輝き。そこから、もらえる力は多いだろうさ。
しかし、その陰で枯れていく個体がいることも、また自然の摂理だということも認めてくれればね。
枯れていく個体が私なら
『今度は土としてやっていこうじゃないか。草生は散々だが、土生はわからない。まぁ、ぼちぼち』って感じ。
同じじゃなくていい。
生きやすい形でいい。
少し諦めも必要かもしれないが、多少は傷ついたりもすると思うが、次を見つけていけたらラッキーだよね。
見つけられたらラッキーってだけで、アンラッキーな場合もあるってだけさ。
辿り着くのが湿り気のある土だとして、それも素敵ではないか。静かに大地になるのもいい。
それでいいのに、そうやって大きく緩やかに流れているのに、引っこ抜いて持ち帰えられて、まさかの水耕栽培なんかされて「大丈夫!みーんな可能性のある草だからね~大きく育てるよ~頑張ろうね~」なんて言われた日にゃたまったもんじゃない。(例え話なので、これが全てでもなく、水耕栽培は凄い技術だと思うよ)
確かに強烈なネガティブには、強烈なポジティブをぶつけるしか解決法が無い時もあるし、そういう時こそ、ネガティブに負けないポジティブの本領発揮だとは思うんだけどね。
ポジティブもネガティブも尖らせたら凶器なのは、かわんないんですって。
善意も悪意も同じだよ。
どんな強度で、どんな形で、どうやって使うのかで変わるだけ。
これが善意&ポジティブ布教派には、なかなか伝わらない。
笑顔でくるからね。
すっごい良い笑顔と、優しい声音。ゾッとする。それは優しさとは違う。
『絶対を信じて絶対に助ける』
やめて、やめて。
ほんっと。
踏み込み過ぎれば逆鱗に触れる。
私の思考回路がネガティブに見えるからかもしれない。
そういう人に追い掛け回される日々があったらしい。
いや、私の生命力高くないから休眠期間を設けているというか、どっちかといえば湿った環境が好みというか。
苔むした森の中でスヤスヤしていたいというか。
暗闇の中でゴチャゴチャしていたいというか、藻掻き苦しみはしてるが、陽の光を浴びたいんではなくて、闇の制御の仕方をしりたいみたいな。
根本が違うんよ。
と多分、当時の私は思いながら、激しい違和感を抱えつつも、それでも相手の善意という力を一心に受け(だって、すごいパワーだから、退かすほうがめんどいというか無理で)欠損していったのであった。
土曜日になんて内容の記事なんやーと思いつつ、そうだ書いとこうと思ってしまったのだから、仕方ない。
これは一つの私であって、全部ではない。
さて、仕事いこう。