明智光秀の京屋敷の位置を探る【2025更新版】

一昨年の「言継卿記(ときつぐきょうき)から京都の十兵衛のお家を推察する」の更新版です。

前回、室町時代に光秀や信長様たちと交友のあった公家、山科言継の日記『言継卿記』のなかで「信長が上洛した際、京の十兵衛の屋敷に行った」という記録から「十兵衛の京屋敷は五辻町(上京区・西陣の近く)あたりでは…」というところまで推察しましたが、今回もう少し場所の絞り込みが出来たのでその考察レポートになります。

シロウト考察&時々「麒麟がくる」ベースの解説と妄想が入りますが。ネットや文献で調べてもわからない…なら自力で調べるしか…という悲しき麒麟・光秀オタクの執着に震えながらお付き合い頂けますと幸いです!

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今回あらためて参考にした言継卿記の内容です。
「永禄十三庚年 二月 卅日
 織田弾正忠申刻上洛 公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎に被行、京上下地下人一町に五人宛、吉田迄迎に罷向、予、五辻歩行之間、則被下馬、一町計同道、又被乗馬、 則明智十兵衛尉所へ被付了」

(永禄13年2月30日。 織田信長公が夕刻に上洛。公家、奉公衆が近江堅田、坂本、山中等へお迎えに行った。京都の町は1町につき5人をあて、吉田(山)あたりまで人を出している。私(言継)は五辻の間、馬を下り一町(約110m)ほど信長の行列に同行してまた馬に乗り、一行は明智十兵衛の家に到着した。)


まずは信長様の上洛ルート全体から。
日記では「織田信長公が夕刻に上洛。公家、奉公衆が近江堅田、坂本、山中等へお迎えに行った。」とあります。
日付からこのときの信長上洛は麒麟第30回「朝倉義景を討て」のエピソードで描かれた、帝拝謁のための上洛のようです。そりゃ京の人々は総出でお迎え体制になりますね。ときに明智十兵衛光秀43歳。

日記に書かれている地名から、このときの信長の上洛は岐阜城から琵琶湖に出、堅田まで舟で。その後陸路で坂本を通り比叡山の南方を通る「山中越え」ルートで京の町に入ったと思われます。下図のピンク色のルートが坂本から上洛までの道のりになります。【図1】

ちなみに山中越えは志賀越えとも呼ばれており、今でも車で通ることが出来ます。

【図1】上洛ルート・山中越え

次に山中越え後、京の町に入ったあたりを見てみましょう。
「京都の町は1町につき5人をあて、吉田(山)あたりまで人を出している。」
吉田山は、左京区にある吉田神社のあるところで、比叡の山から平地に降りてすぐの位置です。
2月の申の刻(午後3時~5時くらい)なので町から人を出して、夕闇の沿道にかがり火や松明をたいてお迎えしたのでしょう。

そこから一行は「五辻町」へ向かい、吉田山前から真っすぐ今出川通りを西へ進んだはず。【図2】

【図2】吉田山(吉田神社)と今出川通り

そしてその先。言継卿記では
「(言継)は五辻の間、馬を下り一町(約110m)ほど信長の行列に同行してまた馬に乗り、一行は明智十兵衛の家に到着した。」
とあります。今出川通りから五辻町に入る道は今も当時も智恵光院通(ちえこういんどおり)。今出川通りから曲がって約100m、北へ上ると五辻町(いつつじちょう)・五辻通りとの辻(交差点)があります。
五辻町の範囲はこの辻を中心に南北方向に約100m程。「五辻の間」言継が下馬して信長の行列に同行した1町(110m)はこのあたりと思われます。【図3】

【図3】五辻町

言継はこの約100mを歩いたあと馬に乗り、信長一行は光秀の家に着いた。とありますので…十兵衛の家は五辻町の先のようです。

ここで、当時の「上京・総構(そうがまえ)」と近隣図を重ねてみます。(当時の地図は『京都時代MAP安土桃山編』を参照。)総構とは当時の町を囲む堀や壁、土塁などの防御施設のことです。

前回は十兵衛のおうちは五辻通り沿いあたりか?と考えましたが、五辻通りは惣構の西端と接しており、東西に延びる五辻通りを西へ行くと上京地区から外に出てしまいます。奉公衆…官僚エリートとなっていた光秀が構えの外に居を構えるのは不自然に思えます。

そして当時の地図を信長一行のルートに重ねてみると…一行の進んだ先は総構の北西の角にあたり、寺以外に空いている敷地は3区画程に限られます。…ということは。この3区画のいずれかが光秀の京屋敷地なのでは…!?いや、ここ以外…他にないような??【図4】

【図4 光秀の京屋敷推定地】

因みに現在の智慧光院通り、五辻町の先はこんな感じです【図5】。
突き当りは想定地①瓦屋根の京町家。左に見える寺院の壁が当時、現地での惣構の壁もこんな感じだったのかな…と想像させてくれます。

【図5 智慧光院通 五辻の先、光秀邸推定地付近】

画面右奥の白いマンションあたりが光秀邸推定地②になります。その手前、推定地③は写っていませんがスーパーマーケットのライフ智慧光院店がありました。道幅は昔から変わっているか不明ですが、当時もこのくらいの幅なら行列がゆっくり先へ向かって進む様子が想像できますね。そしてその先で、信長様をお迎えする光秀と明智家臣団の姿も…。

ここからはまったく根拠のない想像になりますが。。。推定場所①②③のうち、お迎えで絵になる?佇まいは通りの突き当り①だけれど、賓客とそのお付きを泊められるだけのキャパをもつ上級官僚の邸宅としてはいささか土地の奥行が足りないような気がします。実際に歩いてみてもそんな印象でした。(でも通りの突き当たりにお屋敷の門があったらカッコいい!)
一方で②③の方は敷地の一辺・東側が水路に多く接している分、セキュリティ面等から武家の屋敷に向いているようにも思えます。が、いくら公方様の覚えがめでたいとはいえ「ぽっと出」の光秀がこの頃の有力守護代とその重臣である三好・松永邸と同等、もしくはそれ以上の敷地面積を持つのもどうなのか?それともこの中のどこかの区画の一部が明智邸だったのでしょうか…?

とはいえ、帝拝謁のために上洛した信長が常宿である妙覚寺(十兵衛の家の近所)に入る前にまず、明智邸に入っている…ということからやはり幕府の要職を務める武官の邸宅として、それなりの格式と大きさを持ったお屋敷だったのかもしれません。ここで信長様は旅の疲れを癒やしつつ、十兵衛にあれこれ用事を申し付けたのかな。。。晩ご飯もきっと十兵衛のうちで済ましたよね?

最後に京の都…洛中全体における光秀邸と関係各所の位置を上げておきます。黄色い部分が室町期の居住部分です。当時の京の都は光秀たち官僚が住む上京と、主に町人たちが住む下京がそれぞれ惣構で囲われており、その間を室町通りが繋いでいました。【図6】

【図6 室町期洛中】

十兵衛のおうちから職場(旧二条城)まではこの距離だと馬通勤だったのかな?東庵先生の家は庶民の居住区・下京だと思われます(東庵先生宅は当時の有名医師・竹田法印宅を参考)ので、十兵衛のうちからだとけっこうな距離がありますね。煕子様は夜中にこの距離を走って東庵先生を呼びに行ったのか…。(それはドラマのお話。)

そんな訳で。今回はかなり光秀の京都のおうちの特定に迫れたのではないか?と思います。
実際には本能寺の後、屋敷はメタメタになっただろうし、その後江戸時代の大火などもあったので現地や資料等で明智光秀邸の位置や物証が出る可能性は少ないと思いますが。。。出来れば今後もしつこく検証を続けたいと思います。だって十兵衛のおウチ、どこだか知りたいんだもん!

ここまでお付き合い、お読みくださりありがとうございました。【終わり】

※参考文献
「言継卿記」
「京都時代MAP安土桃山編(光村推古書院刊)」
「NHK大河ドラマ・ガイド 麒麟がくる完結編(NHK出版)」


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