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私が家を手放した理由


※この記事は2021年10月に書いたものの再投稿です。

はじめまして、福井菜奈です。

早いもので家を持たない暮らしをはじめてからもうすぐ5ヶ月が経とうとしています。

今の私の持ち物は小さなキャリーケースとリュックサックだけ。これは旅の一時的な荷物ではなく、人生における所持品のすべてです。実家に荷物を置いたり、トランクルームに収納するようなことは一切していません。

持ち物はわずかな衣類と、仕事に必要なデジタルデバイス、本2冊にノートと筆記用具、簡易的な少しの生活用品、水着に、ビーチサンダル、それからパスポートとお財布だけ。

モノに依存し、収集癖のある物質主義だった私がなぜ家を手放したのか。なぜここまでのミニマリストになったのか。一つ目の記事ではその理由や経緯と、実際に完全なノマド生活をしてみてわかったことや気づいたことについて話そうと思います。

 東京で憧れの町のデザイナーズマンションに暮らし、自分の会社を設立して、同じ街にオフィスを持って、欲しいものは自分で手に入れ、自立して自由に華やかな暮らしをすること。それが20代前半までの私の夢だった。

喉から手が出るほど渇望した暮らしは、一年も経たず叶えたわけだけど、想像していたよりもずっと心が満たされていない自分がいることに驚いた。欲しいものはある程度自分で手に入れることができたし、衣食住、すべてのものが望む水準を達していた。文字通り、何不自由ない生活を送っていたのにだ。

毎日のタクシー生活で交通費には十何万。それに負けを劣らない外食費。週に1回美容院に行き、携帯は2台所有。都内の新築デザイナーズマンションでペットを飼って、食べるものはすべてオーガニックのこだわり食材でのヴィーガン生活。毎月、友人の誕生日会やお店のオープン祝い、付き合いでの外食やお呼ばれにも出費はかさむし、収入が増えれば余裕が出来て自由になると思っていたのに、反対に生活水準は上がり、お金への依存とそれによる不自由さばかりが増した。

得れば得るほどに欲求が膨らみ、満たされない感情も膨らむ感覚。あるはずなのに、なぜなんだろう。常に不足感が絶えなかった。

 付き合う人間も経営者や事業者など、お金を稼いでいる人が増えた。その世界ではいかに経済的に成功しているのか、いかに知名度があるのかで互いを比べたり尊敬し合い、どれだけ所有しているかがステータスになっていた。そして、上には上がいる周りと自分を比べては劣等感に苛まれて、もっと稼がなきゃ、もっと成功しなきゃ、もっと住む場所のレベルを上げなきゃと今あるものよりも、不足にばかり目が向くようになっていた。そしてそんな世界に、とてつもなく着心地の悪さを感じた。

お金から自由になりたくてお金を稼いだのに、稼げば稼ぐほど逆に縛られて不自由になっていく。思っていたのと違う。そう思った。

だって、表側ではキラキラした部分を見せていたり、ちやほやされている芸能やインフルエンサー、スポットライトを浴びる仕事をしている人や、俗に言うお金持ちで物質的に豊かな暮らしをしているような人たちが、実際には表に見せている顔とは反してほとんどが病んでいたり、精神的な問題を抱えていたから。

物質的にたくさんのものやステータスを手に入れている人こそ、癒えない孤独や不足感、愛情不足を口にしいた。

“すべて手に入れれば、完璧に満たされて幸せになれるにちがいない。"

そう信じて疑わずにいたのに、手に入れてみた結果幸福は所有には比例ぜず、物質的な豊かさが精神的な豊かさに関係のないものだと気づいてしまったのだ。それは満たされていない欲があるうちにはまだ気づくことができなかった。手に入れて初めて手放すことができるけれど、手に入らないうちには追い続けてしまうのが皮肉だった。

人間は、手に出来ないものにほど執着する。

そして、執着は感情の中でも極めて重たいエナジーを放つため、手放せずにいるものごとが少しでもあれば、次のステージへ上がることができないのだ。手放すためにには手に入れる必要があるのだけど、苦労して手に入れたものほど手放すことが困難になりやすいのが厄介だった。

時間をかけて積み上げてきたものがゼロになることを人は恐れる。それは、死にも似ている。

死と言うとネガティブに聞こえるかもしれないけれど、実は私たちは生きてるうちに何度もそれを経験している。例えば学校を卒業するときや、未成年から成人になるとき、独身から既婚になるとき、仕事で昇進したり、親になるときなど、何か次のステージやステップに進むとき、以前の自分とは別れを告げて新しい自分に生まれ変わる。これにより事実上、死を体験しているのだ。

ではなぜ、手放しが必要なのか?

 これはとてもシンプルな原理で、両手に色々と抱えたままでは新しいものを手にはできない。何かを得るためにはこれまで手に入れてきたものや抱えてきたものを手放して、空間をつくる必要があるのだ。呼吸は、吐くからまた吸うことができる。終わりは始まりの合図で、手放すから空いたスペースにまた新しいエネルギーが入ってくる。生きてる限り常に成長の段階では死が訪れて、同時に再生や誕生、新たな始まりがやってくる。

この、再生と破壊や始まりと終わりとは、生きていく上で幾度と繰り返し続ける単なるサイクルの一つで、現象であり、恐れるものでもない。たとえどれだけ恐れたとしても逃れることはできない。


手放すということは、ゼロになるということ。

ゼロと聞くと一見、何かが失われたり、奪われたように感じる人も多いかもしれない。でも実はまったくの反対で、ゼロと最も近い表記はマイナスではなくインフィニティ、無限だ。何もないということは、ひっくり返せば何もかもあるということになる。

 家という、今までは生きる上で必要不可欠だと思い込んでいたものを手放してみたらどうなるのか気になった。家を手放した理由の一つはこんな好奇心からだった。帰る場所がなくなったら不安定になるかも、ホームがなくなったら孤独になるかも、住所や拠点がなくあるのは不便かも、そう思ったのはほんの一瞬だけだった。

実際には、帰る場所やホームと言える場所が世界中に増えたし、拠点や住所がないので活動拠点に縛られずに行きたい時に、行きたいところに行けるようになったことで行動範囲も交友関係も広がった。手放したことで、失くしたり減ると思ったらものが、逆に増えたのだ。

それがないと生きられないと思い込んでいるものは手放してみると笑えるくらいに案外あっさりといらなくなったり、なきゃないで新しい形に変化や適応するので、何とかなってしまうものだ。


 家を持たないと言うことは、いつでもどこにでも行けて、どこにでも住めると言うこと。どこに帰らなきゃと、現実に戻らなきゃと、いつか終わりが来るいっときのバケーションや旅行じゃなくて、生きている限り、旅が出来るということだ。まさに、ゼロにしたことで可能性が無限に変わったのを体感した。

旅を人生にする。仕事とか、そう言うレベルじゃなくて、もう人生にしたい。そのくらい私にとって旅は好きなことで、生涯息が続く限りやり続けたいものだったことにも、家を手放して気付けた。

 私は自分の暮らし方をよくゼロ拠点、住所地球と呼んだりする。

家を手放したメリットはここまで話してきたように数知れずあるけれど、もっと現実的なところで言うと金銭的なストレスや負担からの解放も挙げられる。毎月生活費の中で半数を占めていた家賃や固定費がゼロになったことで悩みが減ったのは大きかった。他にも、狭い都市の中で完結していた世界が広がったこと。行動範囲に制限がなくなったので日本中、世界中会いたい人に会いに行けて、行きたい場所に行けるようになったこと。今この瞬間に自分が求めている場所に惜しみなく行けることで人生のスピードも加速したこと。物理的な距離や国境などのハードルがなくなって、交友関係の幅も増えたこと。

そして一番は、自分の中の世界も同時に広がったことで、価値観も広がり、狭い世界での固定概念や常識、当たり前が覆されて、マインドがますますフレキシブルになったこと。それによって、見える世界も視野も広がって、自由度や幸福度が増したことが最も大きかった。一つの場所に留まり続けていたら、この視点は絶対に持てなかったと思う。

手放せずに自分を重たくしているものや

“こうでなければいけない。“ 

“こうあるべき。“ は、一つでも少ない方がいい。

何かを持てば持つほど、責任やリスクも増え、所有にはプレッシャーやストレス、維持費や固定費もかかり続ける。

そして、「満足感」や「自分は既に満ち足りている」と言う感情は、内側から湧いて出てくるものなので外側から何かを得たり所有をすることでいつの間にか生まれるものではない。どれだけ物質的に装飾や武装をしたり外見を飾ったとしても、所有しているもので自己評価やアイデンティティが変わることは実際には、ない。

 良い車や家を所有して、給料の何ヶ月か分の時計を買うことがロマンになって、どれだけモノを得たかがステータスになったのは一昔前までで、その時代は既にもう終わりを迎える。

 最近はもうすっかり聴き馴染みのある、ノマドやアドレスホッパーなど定住しない暮らし方、リモートワークやデジタルノマドなどの場所を選ばない働き方、ミニマリストと言う選択。そして、ビジネスシーンにおいても主流になりつつあるシェアハウスやシェアオフィス、カーシェア、間借りなどのシェアのシステム。

時代の変容とともに、私たちの暮らし方や働き方もより自由に、よりフレキシブルで身軽に変わってきている。

そしてこれからの風の時代を生きやすくするためのヒントこそが、フローに乗るための"身軽さ"だと私は思う。

例えば何かに固執や執着、依存して生きているときには永遠にそのものごとに縛られ、支配されるため不自由であり続ける。思想でも肉体的にも何かに囚われていたり依存していると、自らを縛り付けて同じ場所に留めたり、成長を妨げたり、変化に対して保守的になったりして腰を重たくしがちだ。これまで築いてきたものや経歴、手に入れたものや過去に固執したり、手放せずにいることに気づいたら、それは今まさに手放しをするべきだというサインだと思う。

 今、私は住む場所がない。

昨日までジャングルの中にいたかと思えば、今日はビーチサイドにいたりする。眠りにつく場所は、ラグジュアリーなホテルの日もあれば、旅人が集うドミトリーの二段ベッドの日もある。寝床は、ヴァンの中だったり、寝袋だったり、ハンモックだったり。海が一望できるリゾート地のホテルの日もあれば、標高3000メートルの山小屋の日も、大都会のビジネスホテルの日もあれば、寝台列車や、空港の寒いベンチの上の日だってある。

全く同じ日は、一日となく、朝目が覚めた瞬間から、今日は一体どんな日になるのかと予定調和ではない日々にワクワクする。

そして今の私は、お金があってもなくても、田舎だろうとシティだろうと、山でも海でも、どんな環境の変化があろうとも、国が変わろうともそのどれもに同じように感謝し、楽しむことができるということを知れた。

多くのものを抱えて手離せずにしがみつき、捨てきれないこだわりや執着が自分を不自由に押さえつけていたあの頃とは大違いだ。

このすべての体験が家や、モノを手放したことで得ることができたものだから、自分の選択には、すごく感謝している。そして、今もし、何かを手放そうと迷っているすべての人がいたら伝えたい。

新しい世界は何かを決断した瞬間からすでに用意されはじまるので、安心して飛び込んで大丈夫だと。始まりには終わりが付きものだということ。

 何もないとは、すべて在るということ。

何もないという豊かさに気付きたい人には是非、家を手放すことをオススメする。もちろんどうなるかについては、自己責任で(笑)

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福井なな
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