才能は、自分にとって「地味で普通」なことの中にある

私にとって「物書き」 は
誰に見せるでもない掃き溜めだった。

心を沈め、頭をクリアにする
セラピーのようなもの。

子供の頃から、日記を綴ったり
小説を書いたりするのがストレス発散だった。

初めて物書きを評価されたのは、7歳のとき。
学校で、「私がうまれたとき」という題材で、自分の出生ストーリーを母から聞き、作文を書いた。

その作文が母の日の授業参観日に選抜されて
担任の先生によって音頭されたら、
そこにいた父兄のほとんどが涙したらしい。
(私は熱により欠席、担任の先生からの後日談)

小学生の頃、夏休みの宿題で
読んでもない本の読書感想文で賞を取ったり、

中学校の弁論大会で
学年一バカで問題児の私が
学年一の優等生で生徒会長の男子と
最終候補まで残ったこともあった。

結果、スカートが短い、頭髪が茶色いと
先生たちからの別の部分での批判により敗退。笑

そして大人になり、キャバクラに勤めていた頃。仕事のストレスを呟くため、掃き溜めとして始めたツイッターがなぜだか2万人にもフォローされ、怖くなって鍵をかけたほど、物書きをするといつも自己評価以上に評価を得た。

その後、「掃き溜め」だったツイッターを
当時激ハマりしていた筋トレや食育に関することをアウトプットするための用途に変えると、フォロワーは更に増えた。

SNSのフォロワー数が10万人に達する頃には、
パーソナルトレーナーに転職し
フィットネスインフルエンサーとして
ツイッターから仕事のオファーや商品提供、
インタビューの依頼が舞い込み、
出版社からオファーを頂いて
本を出版することに。

出版した本は発売数日で重版が決まり、
一年絶たずで独立、起業するに至った。

あっという間だった。
たった一年そこらで人生が変わった。

才能というものは、
実はとても地味だったりする。

なぜなら、誰に習ったでもなく
苦労して手に入れたでもなく
ただなんとなく、無意識に、無自覚に
昔から人よりも簡単にできてしまうことだから。

汗水垂らしたり、
血の滲む努力なしに
息をするように、なんかできてしまう。

自分が思っている以上に評価されたり
褒められたりするけど
「こんなの自分にとって普通なのにな」と思う。「きっと誰にだってできること」だと過小評価してしまう。

人の才能は輝いて見えるのに、
自分の才能は近すぎて見えなくなったり、
もしくはかすんで見えたりもする。

死ぬほどにワクワクしたり
胸がときめいたりするわけでもなく、
もっとずっと側にあったような
地味で、静かで、だけどなぜか心地よくて、
気が付けば長いことやっていて、
なんか得意で、やたら褒められて、
なんだかんだで好きなこと。

キラキラと光るようなものとは程遠く、
まるで自分の一部のように
異物感や、特別感があるわけでもなく、
あまりにも自然に、ふっと、馴染んでいるもの。

そんなものがあれものがあれば、
それはきっと才能。

そしてそれは、誰もが持っているもの。

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福井なな
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