電波が紡ぐ青春論
冷笑に対する熱血/健康/誠実(!)
その言葉に熱を感じないのは何故だろうか
1 La Plej Bona Lumo En La Spaco
あらゆる人に内的宇宙が宿るとした場合、その狭間の通信はどのように行われるだろうか。一般的には言語、思考の類似性によるものであり、究極的にはテレパシーによる。
テレパシー自体はあくまで最も有効な通信の手段であって、通信の結果、引き起こされる融和あるいは不和については何ら保証されない。ネットワークで人々が繋がってなお、その相互理解は十分に果たされているとは言い難い。人々が尊重しあう関係性のためには、単なる通信手段以上の何かが必要である。
かつて人々はその拠り所を空に求め、やがてそれは信仰となった。宇宙の神秘のイメージは、神の存在可能性への希望であり、人間の可能性へのわずかな色めきでもある。
明らかに外であるにも関わらず、ときに宇宙は内なるものとして描かれるが、それは宇宙の無限性、未知性によるものだろう。『星屑テレパス』において、海果の目指す宇宙はどちらかといえば内なるもの=心的宇宙であるように思える。
海果は理解者へのアクセス≒外的宇宙への到達を指向しているが、突き詰めれば自らの出自の理解≒内的宇宙の解明へと至る。これはユウの目的とも一致する。
本作において、(外的)宇宙はそれ自体が目的地でありつつも、(内的宇宙への)道中でもある。2話で一旦は達成された宇宙への到達は、相互理解への第一歩にすぎない。テレパシーは外へと向かい、その果てに内に至る。
2 Elec-destruction
冷笑は脱構築と同様の批判を受ける。行為/テクストの多義性を指摘し無限に逃走しつづけるという特性故に、それ自体が厳密な定義を持たず反証可能性を封じているという。実際、冷笑に対する反応として、冷笑への反証ではなく、さらなる冷笑、すなわち反動としての熱血が見られる(!)。
電波(陰謀)は冷笑とよく似ている。学び、働き、人と関わる、そういった人間の自然な営みを「詭弁」によって否定し、固有の論理世界に閉じこもる。電波人間は全ての意味の裏側に潜む無意味を指摘し、無意味に対する優位性を主張する。
しかし、電波が冷笑と大きく異なる点として、その固有性が挙げられる。客観的に電波は明らかに無意味であるが(あるいは当人にとってさえ!)、しかし意味にとって最も重要な、主観的信仰としての機能のみを残す、極めて純粋な意味である。
冷笑には信仰が宿りえず、それ故に自壊する。一方、強固な信仰にも関わらず、電波もまた自壊し続けるものである。それは未知を恐れる現代の要請でもあり、あるいは生活の失敗/身体の成長(加齢)といった現実的な問題による消耗でもある。
地球には信仰が、宇宙には電波が必要だ。電波の自壊に抗うにはどうすればいいか。頑なに電波の強度を高めていく一方では、やがて現実との乖離に耐えきれず、崩壊する。崩壊しつつあることを受け入れ、ある種の撤退戦ではないが、常に新たな電波を定義し続けることが必要である。
我々は如何なる現実に対峙しても、「嫁」が報われずとも、公式が勝手に変なことを言い出そうとも、そのように電波を振り撒いてきた。それは明らかに冷笑ではない、しかしだ。
熱血とかでもないでしょ 言うほど 帰宅部か卓球部辺りやし アニメもボーッと見てたし なんかもっとこう カスの青春への愛がさ
3 Electric Syndrome
2022年、名古屋駅前から『飛翔』が撤去された。その存在感からも明らかなことだが、これは上昇の象徴としての塔である。もの寂しい名古屋駅前に、私は一つの時代の終わり、摩天楼の陳腐化を思わずにはいられない。人々はもはや空を見上げることなく、手元から世界を達観するという逆転に陥っている。
2011年7月24日に遡る。その日、地上波テレビ放送は地上アナログ放送を終了し、地上デジタル放送に完全移行した。2011年は震災の年として人々の記憶に強烈に刻まれているが、それだけに電波の年として語られることは少ない。
アナログからデジタルへ、というタームにおいて10年代を語ることは可能だろうか。すなわち、アナログ/オカルト的な精神論からデジタル的な統計論への移行としての位置付けである。
麻雀(それは私の青春でもある)業界においては『科学する麻雀』(2004)の出版以降、戦術が統計学的に語られるようになる。その後も、ネット麻雀によるビッグデータの獲得、突如出現した麻雀AIの圧倒的な戦績、新世代のデジタル麻雀打ちの活躍などにより、古豪オカルト雀士は急速に駆逐されていった。
もはや世界から色めく電波は失われ、病理/不合理の枠組みのなかに押し込まれつつある。ただ一つの強大な「意味」が求められる中で、巨大な空虚、無限に再定義可能な無意味としての『飛翔』の存在はもはや許されない。我々は宇宙人として、このような「熱血」に対抗せねばならない。
4 Ground Control to Psychoelectric Girl
明らかに内であるにも関わらず、ときに深海は宇宙と並列して描かれるが、それは深海の無限性、未知性によるものだろう。深海と宇宙とはよく似ている、というより同一である。
第3話、後ろ向きに宇宙を信じるエリオへのカウンターとして、真は自転車による(失敗を前提とした)飛翔、前向きな沈没を敢行する。彼の意に反して、「電波」によって2人は空を飛び、沈む。
本作における飛翔体の特性であるが、それらは飛んだ後、堕ちて沈む。すなわち、天空を通過し、水底と接続する効果を有する。3,8,12話と反復して描かれるように、飛翔が成功した結果として沈没することが重要である。(様式美としての儀式的効果)
内へと無限に後退し続ける電波は、最終的に宇宙へと至る(そして無様に沈む)。真は電波を否定し、青春を追求した果てに、何故か電波に回帰してしまう。天と底と同じように、電波と青春もまた接続の関係にある。それらは端と端としてではなく、同一円環上に存在するからだ。
我々の日々は冷笑とは真逆であったが、熱血ともまた程遠く(なんならひんやりオナホールだ)理解を得られることのない、しかし(全く意味不明ながらも)真摯さに満ちた青春ではなかったか。
ならば、問うべきは熱血か否かではなく、真摯か否か。連帯すべきは熱血ではなく、電波の名の下にではないだろうか。
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