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【最弱テイマー】ゆるく冷笑する健康至情主義

実は新卒というわけで、朝から晩までオリエンテーションを受講させられている。教習ビデオを見るのが仕事、というわけだが、これが予想外に面白い。講師の言う通りに声を出し頭を下げると(音程や角度までをも指導される!)、社会的承認欲求が満たされていくのだろうか、なんともこしょばゆい。

かつて「社会の歯車」「レール上の人生」と揶揄されたライフスタイルは、もはやある種の憧れ(諦め)と共に語られるものになってしまったのだな、と実感させられる。撮り鉄趣味というわけではないが、スーッと敷かれた線の上、軸を揃えて回る車輪は美しい。ただし、回し車を走り続ける日々というのは、たどり着く駅があればこそである。

さて、私が妙なことをして(させられて)いる間に、Xでは「冷笑から誠実へ」というようなテーマが盛り上がっていたらしい。私の拙い文章が多少の反響をいただけたのも、世間の需要を運良く捉えられたからなのだろう。未読の方はぜひ。てか『治癒魔法』見ろし

さて、一般的に冷笑は「ポストモダン的な」「悪しき相対主義」とも表現される。いわく、冷笑主義者(相対主義者)はいかなる価値観にも軸足を置くことなく、むしろ嘲笑い、人々の営みの外側、高い位置から「批評する」。彼らと我々批評家とが同一視されつつある現状は大変憂うべきものである。

しかし、やはり相対主義者の宿命というべきか、彼らは「自壊する」。否定神学批判を援用するならば、彼らはイデオロギーを否定するあまり、反イデオロギーを神聖化(identify)してしまう、というジレンマに陥ってしまう。SNS全盛の時代に、外部(非-当事者)であり続けることはもはや何者にも不可能である。

相対主義者らが土俵に立ち入ってしまった(立ち入らされた)時点で大勢は決していた。その神秘はゆっくりと解体され、寄る辺なき小市民の姿が暴かれる。相対主義すらをも取り込む資本主義のなんと末恐ろしいことか!

一方、我々批評家は改善主義のイデオロギーのもとに盤石である。絶対的な真理の不在にひるむことなく、曖昧なまま、惑う星(planet)のごとき力強さを持って回り続ける。

嫌味はともかく、相対主義の限界が露呈したことで、イデオロギーへと回帰せんとする潮流が静かに、しかし着実に強まりつつあることは確かだ。ところで、何を信じればいい?

60年代以前の「大きな物語」がとっくに効力を失っているのは明らかだろう。冷戦時代や高度成長期とは違い、明確な外敵や目標はもはや意味をなさない。令和の「怪物」はなんらかの巨大な、しかし全貌は捉え難く、曖昧で存在感の薄い、ざわめき、不安そのものといった様相を呈している。

巨大な脅威の渦中において、我々Z世代はあまりにも無力で、ただ仮初の日常をやり過ごすほかない。しかし、残酷にも「小さな物語」の限界に気づいて(気づかされて)しまった今、我々もまた寄り辺なき小市民でしかない。

もはや盲信するものもなく、しかし醒めてしまった目は瞑れない。ならば「中くらいの物語」を創造するほかないだろう。それは社会的かつ個人的で、絶対かつ多様で、正しくかつ優しくなければならない。この困難な特性を有する稀有なイデオロギーとして「健康」はその地位を(かつてないほどに!)高めている。

「健康」が人々にとって逃れられない身体的テーマである以上、関心を失いすぎてしまうことはないといえる。むしろ、備えなければならないのはその真逆の事態で、過剰な医療化によりその効力が強まりすぎてしまうこと、すなわち新たな「大きな物語」(healthism)と化してしまうことだ。健康はあくまで幸福と快楽の追求に従属するものでしかない。夜な夜なTwitterするために体調管理してんだこっちは

健康はさまざまな観念と結びつき、容易に巨大化する。例えば、ビジネスパーソン間で安易なマッチョイズムに則った筋トレが流行っているが、彼らは明らかに健康志向を援用している。もちろん適度なトレーニングには医学的な効果が認められているが、それは「(有害な)男らしさ」や加速主義の正当性をなんら意味しない。

アイビーちゃんはかわいそうかわいい part.5

乱雑なイデオロギーは作品をも破壊する。『最弱テイマー』という冬アニメをご存知だろうか。故郷を追放されたアイビーは過酷な森での暮らしを経て(1-4話)信頼できる大人達と出会う(5-7話)。クラシックな異世界における現代的ネグレクトと、物理的/心理的に安全な状況下における回復を、対比を際立てつつ丁寧に描き、(タイトルの印象に反した)「質アニメ」として一定の評価を得ていた。

#8 結界の中で執り行われる魔女狩り

しかし、8話以降「善悪を判定する」能力の導入によって、「優しい」世界観に致命的な違和感が生じてしまう。身寄りのないアイビーを包み込む暖かな慈愛や信頼は、悪を裁く無機質な判定、保証のもとでしか成り立たない脆弱なものとして解釈されるほかない。

善良なアイビーの影に、果たして何人の「悪人」が追放の憂き目にあったのだろうか(※)、それも「善悪」などという絶対的(とされているだけの)能力のもとに。私は森の旅人として、断固として抵抗せねばならない。

※作中では「157人中、38人」(#9)
もはや個々人というより、組織の問題である

「合理的判断をしない個人として、
 うっかりと応答する」

横田(2017)「健康イデオロギーの時代を生きる :
健康長寿の促進が不可視化する女性的な知と実践」

イデオロギーは大きくなりすぎてはいけない、故に私は「脱力する」。純粋な健康主義を愛するからこそ、その内なる熱量に取り込まれてしまうことなく、むしろ外部から「冷やかして」「からかう」ことが必要だ。冷笑ではなく、愛ゆえに。

批評家と恋人達はよく似ている。ふたりは絶えず近づきつつも、遠ざかりつづけている。共犯的なコミュニケーションなしに、未成熟な恋は続かない。この恋の終わりを、私は望まない。

参考文献

東浩紀(1998)『存在論的、郵便的』
服部健司(2006)「健康を増進する義務」『生命倫理』Vol.16 No.1
横田恵子(2017)「健康イデオロギーの時代を生きる : 健康長寿の促進が不可視化する女性的な知と実践」『女性学評論』第31号


おもしろイデオロギーバトルすぎる

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