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【わた推し】「推し」との隷属

しかし、不思議なことに、■■■=■■■■■は彼女自身一個の「神」にならなければならない。彼女はあたかも「神」であるかのように無限の責任に耐え、かつ無限に■■■を救わなければならぬはめにおちこんでいるからである。

『成熟と喪失/江藤淳』

『私の推しは悪役令嬢』(わた推し)は一目でわかるB級百合コメディで、おれだけが毎週楽しみにしていることで有名だ。そんな作品なのでろくに批評されるでもなく放置されている。

(中世以下の人権感覚にめちゃくちゃキレてる真剣百合noteと牛丼ジャージお嬢様に爆笑している変なオタクしかいなかった)

そもそも皆さんも見ていないと思うので、似通った空気感の作品を挙げておくとコレが近い。ファンボは是非わた推しもチェックしてみてほしい。

アマプラでちょっと見て諦めた


良くも悪くもチープな作風の中に時折見られるどことなく異様な価値観、本稿ではこれを読み解く。

捻れた主従関係

踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。

『沈黙/遠藤周作』

『わた推し』では同性愛者の主人公レイが中世貴族クレア(必然的に異性愛者となる)を啓蒙するような展開が見られる。異世界転生モノによく見られる、倫理的勾配により優位性を生み出す構造によるものだ。

クレアは気高く心の広い人物として描かれているが、ふとした瞬間に(現代基準での)差別的な振る舞いが垣間見える。レイの熱烈なアプローチ=「攻略(籠絡)」は、意図して倫理的な「教育」と混同され、クレアは(倫理的に妥当な展開として)レイに惹かれていく。異性愛者へのアプローチという馴染みの薄い感覚を、転生の文法を用いて自然と受け入れされる手法といえる。

(同性愛者とビデオゲーム・ラバーたる我々を近しく描いているのも上手いというかエモい、
それが同性愛的に許されるのかは置いといて)

しかし、啓蒙する割には人権感覚がイマイチ先進的ではない、という批判も数多い。本作では基本的なユーモア描写として、同性愛者の弱者性を濫用したセクハラが繰り返される。革命を経たにも関わらず、逆転した恐怖政治が再現された中世の失政が想起されてしまう。

さらに言えば、弱者性の濫用は「推し」行為の加害性までも覆い隠している。クレアはレイの一応の所有者(主人)として位置付けられてはいるが、元々はゲーム内のキャラクターとして一方的に所有、改変される存在でしかない。

そして本編中も、上位存在であったレイの特権によって彼女を所有「させられ」、従者たるレイに「愛でられる」。非実在のクレア=フランソワに対する「愛で方」と、異世界に確かに実在し、人権を有するに至ったクレアに対する接し方とが切り替えられていない点に問題の根本があるだろう。

もっともまずい点として、本作における百合の扱いはひと昔前の様相を呈している(ように見える)。すなわち、多様な性的指向の一つとしてではなく、生きていくうえでの明確な障害として。曲解すれば、マゾヒズムや近親相姦と近接した、正しい異性愛に対する変態的な性的嗜好としても解釈できてしまう。

でも――。
「茶化さないとやっていけないんですよねー」
ははは、と私は笑った。
でも、その笑いには誰も呼応してくれなかった。

第15話 リリィであるということ

私の見解としても、人権感覚の微妙さは本作の異様な雰囲気の一部であるように思える。ただ、それを単なる無知ゆえの悪質さと弾劾するのはどうも腑に落ちない。というのも、レイ≒作者自身、内なる差別意識を自覚している描写が配置されているためだ。

これすらも、誰が言ったか「安全に痛い」フリをした、論ずるに値しない「レイプ・ファンタジー」と切り捨てることも可能だろう。しかし、その悪を理解しながらも、疑念を抱き続けてしまう苦悩の構造については論ずる価値があると思いたい。

そもそも、映像作品としてすら、本作の出来は決して良くない。しかし、その不十分さを自覚しながらも、最良の体験を届けようとする姿勢が確かに見て取れる。そして、私はむしろその「ごまかし」にこそ愛着を覚えてしまう屈折した性質を有している。

同様に、私は破綻しかけた人権感覚(およびその自覚性)にこそ魅力を感じてしまうし、本稿自体がある種の弁護の試みである。レイの歪な感覚はどのようなものか、それゆえに何が生じたか。

高貴なる者の責任

レイのキャラクター造形を語るために、転生モノ転生モノでよくある疑問点から始める。すなわち、元の人格はどうなったか。本作の作風なら曖昧に処理してもよさそうなものだが、なぜか(無駄に)設定が練られている。曰く、以前の異世界人レイには自我が無かったのでOK、とのことらしい。

漫画23話
アニメ1話

では、元となる大橋零の自我はどのようなものであっただろうか。映像作品としての『わた推し』に語るべきことは少ないが、わずかな現代描写の異様な暗さについてはやはり注目したい。ほとんどイチャイチャしか見るべき箇所のない本作において、異質な虚無の眼差しが意味するところは、大橋零もまた自我の枯れた労働者(≒キャラクター)でしかなかったということだ。

漫画7話

転生後のレイは底抜けの明るさで、以前の暗さを全く感じさせない。しかしよく見ると、彼女の眼は自分自身の未来をまったく見据えていない。その空虚さこそが、乙女ゲーム(あるいは人生それ自体)の本来の「エンディング」=男性との婚約を指向しない大橋零との同一性を何よりも示している。

「まあ、私の誕生日はどうでもいいので、
メイやアレア、そしてクレア様のお誕生日の時は盛大に――」
「なに言っていますの! 
どうでもいいわけないでしょう!」

番外編1 誕生日

レイの空虚さは自身に対する無頓着という形で現れており、そのもっともたる例が『誕生日』のエピソードだろう。転生によって曖昧に生まれた存在であるがゆえに、彼女はレイとしてのアイデンティティを拠り所とできない。

あるいは大橋零としても、現代生活の中で誕生日を大切にするほどの余裕は持たなかった。かつてあれほど待ち侘びてきた一日が、やがて無意味な平日として過ぎていく。あるいは、あれほど楽しんでいたオタク趣味に、もはや情熱を抱けなくなる。大橋零とは、慢性的な空虚を抱えた、寄る辺なき現代人そのものである。

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レイが「推し」以外の目的意識を持たない(設定されていない)空虚な人物であり、彼女の視点を通してしか物語を観測できない以上、それ本来の意味合いは薄く拡散する。現に『わた推し』において、異世界奇譚/学園モノ/乙女ゲームとしての本筋はほとんど顧みられることない。

では彼女が(相対的に)何に重きを置いているかといえば、それはクレアとのたわいないやり取りに他ならない。この点で本作は「日常系(空気系)」の延長に位置しており、いわゆる異世界スローライフの系譜にあると言える。それらの作品群において異世界は外部(新天地)というよりかは内部(楽園)であり、概ね日常は当然続くものとして扱われる。

しかし、悪役令嬢モノとしての性質上、本作における日常は常に破滅(革命)の危機と隣接している(cf.はめフラ、ティアムーン)。この点は「新日常系」と称される、日常を獲得すべきものとして描く作品群と似通っている。

悪役令嬢モノはあくまで崩壊の回避を目的とすることも多々あるが、本作では革命を経ての日常の獲得という側面が色濃い。ここでは同性愛者が権利獲得に向けて活動を続けてきた歴史が反映されている。

さて、素直にプロットを書くならば、革命は肯定的に描かれるべきだろう。その通りに、本作は革命による中世の終わり、そして自由な時代の始まりを雄弁に語っている。しかし、実に奇妙なことに、私は文中にいくばくかのためらいを感じてしまう。

「何を仰ってるんですか、クレア様。もう他に選択肢はないのです」
「いいえ、ありますわ。貴族の一員として、旧時代と滅びるという選択肢が」

第107話 王国歴二〇一五年十一月十日

不穏のままに、クレアとレイ(および普遍的価値観)は革命において決定的に対立し、クレアは高貴なる者の責任として死を受け入れる。異性愛者の貴族と同性愛者の平民という設定からして必然であるし、百合作品として当然革命は成立するべきである。

「イヤです! 私はクレア様からもう一生離れません! クレア様が死ぬって言うなら、私も死にます!」
「ちょ、ちょっと、レイ――!」
「あー、あー! わーった。わーったから喚くな、泣くな。どうせ処刑はなしだろうよ」
「……え?」

第112話 紡いだ糸

しかし、革命は適切に処理されなかった。形式上の革命は施行されたが、その実質(クレアの処刑)は極めてコメディチックに回避されてしまう。本編(111話、112話)を確かめていただければ分かる通り、一連の描写は稚拙で勢い任せ、ご都合主義としか言いようのない有様だ、何故か。

聖帝語録@wiki より

「いや……いやですわ……。わたくし、お母様と離れたくない。『あなた』と離れたくない……」

第266話 心象の世界(3)

続行のために仮説を導入する。作家としての力量不足によるものではなく、描けなかったのだ。革命は推進されるべきだが、しかし、私にその罪(クレア殺し)が背負えるだろうか。

悪役令嬢の赦し

『わた推し』において同性愛者は赦されないものとして描かれているが、それと同時に赦されるべきものとして救済が試みられてもいる。その企ては、同性愛が我々には語り得ぬ(そして赦し難い)ものである以上、記述可能な体験を代替として行われる。本作において反復される母の死のモチーフはこのためである。

しかし、母の死はあくまで後天的な喪失の体験である以上、生まれながらの欠落の互換にはなり得ない。ここでようやく、その構想段階から「悪」を決定づけられた人格、悪役令嬢クレア=フランソワが必要とされる。

クレアが罪人として扱われるために、彼女の母の喪失は常に罪悪感と共に位置づけられる。すなわち、生前ひどく傷つけてしまったこと、フランソワ家の末代となってしまったこと、貴族のままに死ねなかったこと。しかし、彼女は(台本通りに)気高く振る舞い続け、いかなる苦境にも屈さなかった。

「……お母様。またいつか、お目に掛かることが出来まして?」
「ええ、あなたがその人生を誇りとともに生き抜いたその後で」

第266話 心象の世界(3)

最終盤、クレアは母に赦される。そこには何ら論理的整合性は存在せず、偽りの革命の繰り返しを警戒させられる。しかし、それは極めて自然に受け入れられ、真に弛緩しきった文体のままにゆっくりと物語は終わる。我々が背負うべき罪までもが、彼女によって担われている。

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今の世の中、他律的な生き方は否定されがちですよね。でも、誰しも自力で歩いていくのが難しいときが絶対あると思うんです。

文藝春秋2021年3月号
(宇佐見りん「推し、燃ゆ」 全文掲載)

「推し」とはむしろ内向きの行為だ。元となった人物そのものというより、我々は個別に理想化された偶像に対してこそ特別な信仰を抱く。そこでは、隷属するべきキャラクターこそが主として振る舞う(ようにさせられる)、マゾヒズムにも似た逆説的な関係が生じている。

アニメ7話 「逆転喫茶」

悪役令嬢クレア=フランソワは我々の代わりに赦される存在でありながら、我々を赦す存在でもある。その捻れた隷属は他の文学作品にも見られると江藤は指摘している。曰く、

嫌悪の対象であるが、同時につねに自分と一体化できる「あの男」の顔は、『沈黙』のなかにもあらわれる。

『成熟と喪失/江藤淳』

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