【治癒師】追放系再解釈/性欲
批評1
『治癒師』の原作小説は典型的な追放モノのように見えた。主人公ラウストは不当な扱いを受けているが、ついに憤慨して秘められた能力を発揮し、汚名を挽回する。気軽にスカッとした気分になれる、妙な中毒性のある作品だ。
それと比べると、アニメ版はほとんど別物に仕上がっている。より穏やかな物語とするために施された工夫を確認する。
まず、受付嬢のキャラクター造形を比較する。原作において彼女は明確な悪意でもってラウストを迫害し、後に報いを受ける。読者が正当に怒りを発揮するために、彼女は過剰なほどの悪人として描かれている(=悪魔化)。
しかし、アニメ版ではどうだろうか。確かに彼女はラウストを忌避してはいるが、それは悪意よりかは、周囲の評判に流されていやすい性質-ごく自然な感覚によるものだ。金にがめつい属性が付与されていることからも、あくまで一般的な範疇で、愚かに描かれていることがわかる。さらに、世間知らずの少女ナルセーナに対して、同性としての親切心を働かせる描写すら追加されていることに注目しよう。
すなわち、原作において同情の余地のない純粋悪として描かれた受付嬢は、ごく普通の人間として再解釈されている。
ごく普通の人間として小さく描かれるのは受付嬢のみではない。主人公ラウストさえも、原作での無双ぶりは影を潜め、中堅の冒険者として描かれている。王都から遠く離れた街においてすら、彼は陰謀について何も知り得ない。アニメ版はあくまで、小市民としてのラウストに注目しているといえる。
※映像面では、ロングショットを多用することで、ラウストとナルセーナの出会いの凡庸さが強調される。
誰もが小さな間違いを犯し、誰もが小さな親切を為しうる。普遍的なメッセージではあるが、追放系のフォーマットにおいてこれを語ることに確かな意義を感じる。
原作小説/コミカライズが自分のペースでスラスラと楽しめるメディアであることを考慮すると、アニメは比較的遅いメディアといえる。恵まれた制作環境があればリッチな絵作りによってスピード感を演出することも可能だろうが、ほとんどのアニメはそうはいかない。
本作はアニメの緩慢さを活用した、牧歌的な雰囲気作りに成功している。原作読者の求めるものとして、即効性のある快楽もそうだが、そっと寄り添う態度を見出した、本質を見据えた作品作りを評価したい。
批評2
「お兄さん」が自分を覚えていなかったことを受けて、ナルセーナはひとり呟く。冒険者を目指すきっかけとなった大切な思い出が、彼にとっては冒険者として当然の責務でしかなかったであろうことに対する、一抹の寂しさが読み取れる。
※逆に言えば、それだけ小さな出来事でも他者の人生を変えうるということを示唆している
ナルセーナの髪色の変化。素直に解釈すれば、貴族の少女が冒険者を目指すに至った心情の変化、あるいは子供の成長の劇的さを、視覚的に表す記号的表現でしかない。演出の都合であるはずのそれを、彼女自身が最も重大な変化であるように呟くのは何故か。
ナルセーナが金色(≒高貴さ)を喪ったことは、単に貴族の家を出奔したという以上の意味がある。「あの日」ナルセーナの身に降りかかった、重苦しく不可逆の変化について、我々は「堕天」と表現すべきだろう。ブロンドの少女は無数の野蛮によって純潔さを喪い、青女として迷宮に堕ちた。それは死者の呈する青である。
ラウストは何も語らず、穢れたものを護り、癒す。ナルセーナの内には、彼に清らかであってほしいという意識とは裏腹に、共に堕ちてほしいという無意識が顕現している、ここに女の情欲の芽生えがある。
治癒とは、欲望の発散過程に他ならない。すなわち、欲望の存在(傷)を認め、昇華すること。ナルセーナは純潔の喪失を経て、(性的)欲望の主体として目覚める。喪失の痛みは冒険者/守護者の勲章として再解釈され、彼女は青年との触れ合いによって癒やされていく。
ナルセーナの髪色は、傷を抱えたままで生きること、その上に新たな意味を獲得していくことを示唆している。
ここで、ラウストの超然とした態度にも病的なものがあると指摘せねばならない。迷宮孤児としての、ただ生き延びるためだけの日々において、欲望する術を知らぬまま成長してしまった男の、どうしようもない空虚さ。彼もまた、旅路の果てに自らの欲望と出会い、癒やされるのだろうか。
※あんまやってないけど、シャニマスのあけたみさんもこれ系の、孤児の人格だと思ってる あるいは音楽そのものの比喩的人格にすぎないというか、人を狂わせる魔性の才能それ自体というか でもアイマスってそんな人を人として描かないみたいなことやるの?
↑
1を脳内批評家(ほぼギャルだな)に添削させたらこのようになりました ほんと?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?