日記 どさんこギャル的実存

1 self-control

急に大家が訪れてきたので、無数に心当たりがあるうちのどの苦情かと覚悟していたが、どうやら違ったらしい。いわく、給湯器を交換したとのことで、不潔な生活のため、いつの間に壊れていたのかすら検討がつかなかったが、とりあえず心底困っていたような顔をしておいた。

記念に入浴をしてみたところ、これがまぁ気分のいいもので、今ではすっかり日々の楽しみになっている。サウナは麻薬より気持ちいい、もうすぐ違法になるなどとほざいていた友人のことも少しは理解できた。寒い季節には暖かくするとよい、それを知るのに20年余りを費やす人もいる。

入浴や厚着、暖房器具の概念を導入することで、冬を支配できる。あるいは、今流行りの『魔法少女にあこがれて』ではないが、適切な苦痛を間に挟むことで、同じ刺激からより強い快楽を得られる。SM的快楽とは、すなわち苦痛さえもコントロール下に置くことである。

今期覇権の『道産子ギャルはなまらめんこい』を見ていても、「エロすぎる」の前に「寒すぎる(※)」という感覚がまずある。しかし、冬がどれだけ厳しくとも、北見のギャルは笑顔を崩さないし、我々は暖房の効いた部屋でヌクヌクと過ごしている。寒さに対する暖かさに加えて、冬を克服した優越感、すなわち二重の快楽が生じている。

※ノリではなく、あくまで服装が

2 uncontrollable

中国四国地方のフォロワーが何故あれほどまでに東京に憧れているのかわからなかったが、恐らく何らかの耐え難い苦痛があるらしい、ということが最近わかってきた。

神奈川の辺境で育ち、横浜の高校で死ぬほどイジられていたため、自分は田舎育ちだと思っていたのだが、どうやらガチ郊外はそれどころではないようだ。上記ツイートへの反応からして、私なんぞは軽くいいねしてスルーしてしまったが、郊外の民の反応には積年の恨みにも似た凄みがある。

苦痛は快楽に転じうると述べた、それは都民が高尾山に登って、少々不便な思いをしながらも、素朴な「自然」の開放感を享受する、というような体験だろう。しかし、岡田麿里作品にみられる郊外(盆地)の昏い閉塞感、その中にカタルシスは存在しない。やはり苦痛自体ではなく、その克服にこそ快楽が宿る。

湯船からはいつでも出られる、しかし盆地はどこに行くにも融通が効かない。『アリスとテレス』の気持ち悪さに後悔した日を思い出す。それと比べて、『どさこい』の無関心さというか、気軽さと言うべきか……。北海道の片田舎という最高に批評的な郊外(失礼!)であるにも関わらず、実存のじの字も出てこない作風として軽んじられているのも仕方ない出来ではある。

3 self-uncontrol

環境、もとい自分自身すらをも正しく制御するとよい(善い/快い)、というような理論が自ずと導かれる。要するに自己啓発、セルフコントロールだ。『弱キャラ友崎くん』ではないが、自らの行動を検証し、生存に有利な形質へと改善すること。あるいは価値観それ自体を、社会的に望ましい欲望と擦り合わせていくこと。

なんとも面白くない。セルフコントロールが生存戦略として非常に有効であることは確かだが、啓発中毒者のほとんどは『ツギハギ工場』よろしく自己目的化の罠に陥っている。株式と同じく、それ自体に意味はないのだから、一定のラインで変換する必要がある……何を何に?

マジで知性がない

『どさんこギャル』はあまりにも不合理である。ドカ雪にも関わらず生脚、谷間を曝け出し、当然の如く風邪をひく。エロアニメ豊作の冬だというのに、よりによってこんなのを有り難がっているオタクもどうかしている。それでもなお、我々がこれほどまでに『どさ』(※)に惹かれてしまうのは、彼女自身の魅力、すなわち実存の力強さ故に他ならない。

※『ぽん』と並び今期二大クソアニメと評されている 文字数の無駄なのでこうなった

「改善(制御)=良い」という資本主義的命題はほとんど自明であり、否定しがたい。しかし、単純化された定式に囚われては、あまりにも多くの要素を見落とすこととなる。郊外に埋没するでもなく、かといって都会に過剰適応するでもない『どさんこギャル』的なあり方こそが令和の時代に求められているのではないだろうか。

自己目的化した支配の末路(そうか?)

これだとフリーレン様がどさんこギャルってことにならない?ならないか どさんこフェルンちゃんのファンアートお願いします

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