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【進撃の巨人、呪術廻戦、ほか】リトル・ピープルといかに向き合うか

1、「リトル・ピープル」の時代

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

そういったのは作家の村上春樹だった。「壁」とは私たちの前にそびえるシステムのことであり、「卵」とは他ならぬ私たちのことである。だが一方でこの言葉をして以下のようにも言われる。

壁=システムは、私たち=卵が築き上げたものだ。それも、私達が生き延びるために必要に応じて築き上げたものだ。システムに支配されないために必要なのは、壁=システムは私達の外側ではなく、内側にあることを自覚することではないのか。壁と卵は対立関係ではなく、むしろ共犯関係にある。誰もシステムの外側に立って壁を破壊する立場には立つことができない。そんな現実に目をつぶり、自分たちこそが卵なのだと思い込もうとした人々こそが、無数の卵を踏み潰すもっとも無自覚かつ暴力的な壁=システムを築き上げていったのではないか、20世紀の、特に終わりの数十年の歴史は酷薄なまでにその事実を私たちに突きつけたのではないか。そして、村上春樹こそが、もっとも深くこの現実を受け止めた上で物語の力でそんな現実に抗おうとしてきた作家だったはずだ。(宇野常寛『リトル・ピープルの時代』)

そう、現代は卵(=弱い人間)が壁(=自分を抑圧する強大な何か)に抗っていく過程で、他の卵(=か弱い他者)を潰したり、自らが壁(=他者を抑圧する強大な存在)へとなっていく時代である。

今まであったか弱い人間を踏み潰す強大な力という想像力はジョージ・オーウェルが『1984』の中で描いた「ビッグ・ブラザー」であるのに対し、村上は『1Q84』の中で卵同士がぶつかりあい、潰れていく姿を「リトル・ピープル」という形で表出させたというわけである。

2、『進撃の巨人』におけるリトル・ピープル

わかりやすい例が『進撃の巨人』である。

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『進撃の巨人』はエレンを始めとする人々(=卵)が巨人(=壁)に”潰される”ところから始まる。巨人に故郷と母を奪われたエレンは復讐を誓う。

その過程で、エレンは自分の中にも巨人の力が眠ることに気づき、それを駆使しながら、巨人の秘密について隠しエレンたち調査兵団の妨害を図る王政(まさしく「ビッグ・ブラザー」)を打倒する。

そして彼らは、「彼らエルディア人は唯一巨人になることのできる人種であり、冒頭の巨人による襲撃は、エルディア人による巨人の力から世界を守るためのものだった」という真実にたどり着く。

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そこで、エレンは自らを抑圧する強大な力に見えた巨人(=ビッグ・ブラザー的な「壁」)が実は、抑圧されてきたライナーという自分と「同じ」人間(=リトル・ピープル的な「卵」)であると気がつくのである。

そして、物語の最後、卵だったはずのエレンは仲間を守るため、自ら「人類の8割を殺戮」する壁へとなっていく。

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すなわち物語の想像力は、ビッグ・ブラザー的な悪を打倒するところでとどまり、リトル・ピープル的な悪に屈している。
エレンの尽力により消えたかに見えた巨人の力も、本誌から単行本へと移行する際に付け加えられたコマにより新たに復活することが示唆される。これは『進撃の巨人』がリトル・ピープル的な悪との対峙の仕方を示すことができずに次の世代へと託したとも読めるであろう。

3、『呪術廻戦』におけるリトル・ピープル

『呪術廻戦』においても、主人公とその敵が「同じ」卵であるというイメージは踏襲されている。

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主人公虎杖に対し、その宿敵である真人は、その戦いの中で「オマエは俺だ」という。
そして虎杖はそこに結論を出す。

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自分は真人(真人は自分)と同じ、「卵」であると。
そして、自分はその「卵」を潰す「壁」になるのだと。
(この決断がどのような結末につながるのかはまだ描かれてはいない)

また、『呪術廻戦』では別の形でリトル・ピープル的な悪についても描かれている。
そもそもこの物語において主人公たち呪術師が戦う敵は、「呪霊」と呼ばれる呪いであり、それは弱者である非呪術師から生まれるものである。

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そしてその弱者から生まれた呪霊によって、呪術師である仲間たちは傷ついていく。

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こうした「自分たちこそが卵なのだと思い込んで疑わない」リトル・ピープル的な悪に対抗するために夏油は、非呪術師を殺す「壁」となり、「闇落ち」する。

余談だが、「壁」となった虎杖・夏油と対象的に、それぞれの親友である伏黒・五条「卵」のまま──すなわちその行為の正当性をシステムや大義名分に還元することなく、自分のために(公には正しくなくとも)──相手と対峙する
(この違いが今後「リトル・ピープル」的な悪と向き合うとき鍵になるのでは・・・!?)

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4、現代マンガの想像力

ここまで見てきた『進撃の巨人』『呪術廻戦』を始めとした現代マンガの多くは、おそらくこの「卵」だと思っていた自分が、「壁」として他の卵を潰しうるというリトル・ピープル的な悪に向き合っている。

私たちのこの20世紀が目撃したのは、抑圧と他者の支配に対する人間の、その抵抗と解放という不断の営みであったと同時に、おそらくはそれ以上に、解放が新たなる抑圧と化すという歴史そのものであったのではないか。たとえばボスニアでルワンダで、民族間の憎悪が大量虐殺となって顕現し、ドイツやフランスで、文化を、民族を異にする者に対する排斥があからさまに主張されるように、民族という自己同一性が抑えがたい暴力となって現れる現代において、「抵抗の道具を作り出す過程で、参照すべき価値体系そのものを集中的に検討するという批判的な営みを活性化」し、たとえば民族というような自己同一性へと暴力的に回帰することなく想像を実現するというトリンのメッセージが、ことさら重要であるということは論をまたないだろう。
(岡真理『彼女の「正しい」名前とはなにか』)

それを示すのは、すなわち自分の中にこそあるリトル・ピープル的な「悪」──「抵抗の道具とした価値体系そのもの」の「暴力性」──に自覚的であるということである。

現代少年マンガの多くでその主人公たちが、戦うために使う力の源は、悪しき力──彼らを踏み潰してきたはずの「壁」──である。
エレンのうちには「巨人」の始祖が、虎杖のうちには「呪いの王」両面宿儺がすくう。
ほかにも、『僕のヒーローアカデミア』のデクには宿敵AFO(まさしくビッグ・ブラザー的存在)の力、『チェンソーマン』デンジには「チェンソーの悪魔」がいる。
そしてそれらの力の暴走──自分の中の「悪」が壁として他の卵を踏み潰す経験──を多くの場合経験する。
(エレンは人類の8割の殺戮、虎杖は宿儺の暴走で渋谷にて大量の一般人を殺害、デンジはその力で親友アキを殺す)

だが、彼らはその「悪」を引き受け戦い続ける。

その先に何があるのか、それは私達自身がこの「リトル・ピープルの時代」にいかに生きるべきかという問いの答えとして機能しうるのではないか。

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