「ケアの倫理」への違和感
1,はじめに
本稿では、講義の中から小川公代による講義「「ケア」としての文学を読む──アンネ・フランクから三島由紀夫まで」について論じたい。小川の講義や著書で繰り返し触れられたキャロル・ギリガンのいう「ケアの倫理」とはすなわち家父長制や新自由主義、健常者の目線から見た「正義」からは外れた女性や病人、性的マイノリティ、障害者といった人々の在り方を肯定する倫理として説明されていた。同じようにアラブ文学者の岡真理は、西洋など先進国のフェミニズムが、その正義を根拠に発展途上国の女性たちの文化を劣ったものとして否定してきた歴史を以下のように批判している。
私たちの目には一見、隷従あるいは体制順応的な行為に映る、そのような行為のなかにも、実は、彼女たちの不断の抵抗の意志がたしかにあることに、彼女たちの日常的な営為において表明されている、その抵抗に目を向けることなく、女の人権を訴えて本を書いたり、街頭行進したり、国際会議で訴えたりというような、私たちに分かるやり方で、すなわち私たちのやり方で、私たちと同じ言語によって彼女たちが異議申し立てをしてはじめて、彼女たちが「闘い始めた」「立ち上がった」などと言うとしたら、先進工業国の女の傲慢以外のなにものでもないだろう。
こうした西洋に対する第三世界のような強者に対する弱者の倫理を「ケアの倫理」と呼ぶとき、一つの疑問が浮かぶ。それは、小川が「ケア」の在り方として例示するそのほとんどが強者に対する弱者のまなざし──夫を代表とする家庭に対する妻のまなざし、社会に対する病人や性的マイノリティなど──である一方で、「ケア」という言葉が換気するイメージはむしろ弱者に対する強者のまなざし──病人や障害者に対する介護者、子供に対する母親など──であるということだ。本稿では、「多孔的」で「横臥者」たる弱者の視点の価値を前提に、では個人として「緩衝材に覆われた」「直立人」たる私たちがいかにケアをする者としてその倫理を獲得しうるのかについて考えたい。
2,「多孔的」な自己のもつ暴力性
強者による弱者へのまなざしについて考えるとき参照したいのが、岡が著作の中で語った、今にもとびかかりそうなハゲタカとそれに食われそうなほど小さく丸まった飢えた子供の写真、そしてそれを見た人々による撮影者バッシングにより撮影者自身が自殺したという一連の事件についての一節である。
私たちにとってどうしても受け入れがたいのは、「それ」(=写真の中の意志を示さない少女)がただ「それ」でしかないこと、つまり、「それ」が決して主体─Subjest─主語の位置を占めないことだ。だから私たちは次のように語ることで、「それ」に主体の幻影を見ようとする──「それ」はことばを奪われている。(中略)
だが、それは、結局のところ、私たちの声の投影、私たちが理解したかぎりでの声でしかない。(中略)人々が、言葉を持たぬ少女に代わってカメラマンを非難したとき、そう語った人すべてが知っていたはずだ。この少女はどこにもいないことを。
この指摘は「ケアの倫理」における「多孔性」によりケアが弱者から強者が声を奪う道具になりうることを示している。現在障害者福祉の現場では意思決定支援が重要視されているが、その背景にあるのはケアをする支援者によりケアをされる当事者の声が代替され、奪われてきた歴史と現状があるからであり、近年話題になった『母という呪縛 娘という牢獄』(齊藤彩著、2022年、講談社)の元となった事件のように、親(特に母)により子供の意志が奪われてきた事例は無数にある。家父長制─母─子供、新自由主義─支援者─障害者、西洋社会─西洋女性─途上国女性、というように一方では抑圧されている弱者が、一方では強者として弱者に対する以上、弱者の持つ倫理の美しさとして手放しに称揚し、その暴力性が見過ごされることはあってはならないだろう。
3,「ケアの倫理」における新たな自己像
では私たちはいかにして弱者の声を奪うことなく、「ケアの倫理」を持ちうるかという問いに対して、哲学者の國分と医師で障害当事者の熊谷による対談『〈責任〉の生成』(國分功一郎・熊谷晋一郎著、2021年、新曜社)をもとに考えたい。
上述の書では「意思決定支援」について、「意思」が社会的責任を問うために過去の因果関係を切断し生まれたものであるというハンナ・アーレントの思想を踏まえて「欲望形成支援」という言葉を提唱し、「そこから出てくるのは、個人ではなく集団、意思決定のような切断ではなくて、過去との連続体の中にある欲望の形成の重要性ということになります。」と語っている。
また、小川は講義の中で母という存在についてギリガンが主張した、1980年代発達心理学で唱えられた分離を前提とする自立の成熟観に対し妊娠、出産をする女性が無視されているという議論を紹介しているが、一方で上述の書では胎児の段階ですでにコナトゥス──自分のまとまりを維持しようとする力──が働いている可能性や、そもそも自閉症当事者の中では自分自身の内臓からの信号が、自分の外にある情報からと同様に感じられるという感覚について語られている。
これらを踏まえると、ケアする者が求められる倫理とは、「多孔的」といった自他境界があいまいでともすれば膨張しうる自己像ではなく、むしろより強固な緩衝材に覆われつつも従来よりも小さい──内臓などの自分の身体や体内の胎児すら他者と認識しうるような──最小単位の自己像なのではないだろうか。
この小さな自己においては、もはや「横臥者」も「直立人」もない。その時の身体、その時の環境でたまたま横たわっている者と立っている者がいるだけだ。同様にその自己が置かれた時代や文化、環境から欲望が形成されている。自分自身もまた自己が置かれたその場の様々なものに影響されながら成り立っている(自律している)ことを自覚して初めて、対等な目線で相手の置かれた背景とそこから形成された欲望に目を向けることができるだろう。
4,おわりに
岡はJ・M・クッツェーの『敵あるいはフォー』という小説から舌を抜かれ話すことのできない元奴隷フライデイについて以下のように書いている。
「それ」が「それ」でしかないことの暴力性に私たち自身がさらされながら、その苦痛のなかで、私たちをにわかに行動する主体へと駆り立てるその暴力的な力に抗しつつ、フライデイといっしょに、私たちも回ってみること、両腕を広げて、フライデイのように、ぐるぐるぐるぐるぐるぐる・・・・・・と。私たちが、私たちにとって意味をなすようなものしか探さないかぎり、私たちが見落としてしまうような無意味な身振りの中に秘められた声に耳を澄ますこと。フライデイとともに旋回しながら。
「ケアの倫理」とは、男性も女性も性的マイノリティも障害者も病人も、子供(胎児)ですらも対等だと感じうるような最小の自己像と、それぞれが異なる文化や身体、経験といった背景を持っているという前提の中で、完全にはわかりあえないながらも、ともに旋回し、ともに横たわりながら、わかり合おうとし続けるその営みのことを指すと言えるのではないだろうか。
参考文献
岡真理『彼女の「正しい」名前とはなにか 第三世界フェミニズムの思想』青土社、2019年
小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』講談社、2021年
小川公代『世界文学をケアで読み解く』朝日新聞出版、2023年
國分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成──中動態と当事者研究』新曜社、2021年
斎藤彩『母という呪縛 娘という牢獄』講談社、2022年
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