子どもを対象とする教員の恋愛行為はただの恐怖。
【想定している読者層】
・教員、保護者、児童生徒等
・いわゆる地域の人
・学校に関心のある方
1.記事の結論
児童生徒に対して恋愛行為を行う教員は専門職である教師という仕事に従事していない。
2.児童生徒を対象とする教員の恋愛行為に関するありがちな意見
よくある意見は次のようなものです。
①結婚するなら教員と児童生徒の恋愛は良い
②恋愛感情を持ってしまうのは人として仕方がない
これを言っているのは教員です。これらはよく聞くありがちな意見ですが、他にも、かなり衝撃的な意見があります。
③教員は公務員だから将来安泰だ。そんな人と結婚する事は保護者も望んでいることだ。
④恋愛は自由なんだから、たとえ教師と児童生徒の間であっても他人がとやかく言う事はできない。
教員が言っている事です。
私は信じられないを通り越して怒りすら覚えるのですが、皆さんはいかがでしょうか。教員の不祥事がどれだけニュースで取り上げられていても、教員への信頼がどこまでも失墜したとしても、こういった意見はなくなりません。この様な意見は、性的加害の温床作りに加担しています。
そして、こういった意見は未熟で不勉強な大学生が独自の見解を、さも正当であるかのように喧伝していたり、教員が教育実習生に対して言ったり、実際に児童生徒と結婚した教員が自己正当化のために言っている事があります。まことしやかに語られる危険な意見です。
まず、学校は地域に開かれつつありますが現実的には密室です。
次のことについて、どのくらい知っていますか?
・教員がどのような授業をしているか
・教員がどのような生徒指導をしているか
・教員がどのような部活動指導をしているか
・教員の教育実践は何に基づいてなされているのか
このレベルですら、その実際の所はわかりません。しかも大した説明も行われません。何をしているのか分かるタイミングは「何かが起きてから」です。何か起きないと何も分からないので、その状態は密室であると言って良いと思います。
教頭や校長、教育委員会、文部科学省等々、確かに監視していそうな人たちはいますが、この人たちは「何かあった時に責任をとる」だけですので、日常的に学校で起きている事を全て把握しているわけではありません。もっと言うと、教員同士でもお互いが何をしているかなんて、そこまで知りません。昔から教員関係は疎であると、研究で言われています。
結局、学校は、信頼や黙認、思い込みや期待等、個人の主観によって支えられています。だからこそ、教員には高い倫理観が求められます。にもかかわらず、児童生徒に対して恋愛行為を働く教員を、教育の専門家であると言う事は絶対にできません。
3.知識で理性を働かせるべき
ここで問題なのは「恋愛感情・性的感情」と「恋愛行為」をきっちり分けて考える事ができるかどうかです。
つまり、「思う分には仕方ない」ということです。例えば、親子関係でも親が子に対して恋愛感情や性的感情を抱くことはあります。これに大いに悩む親も普通にたくさんいます。ただ、こういう話は世間一般には絶対に出て来ません。当然ですよね。
親が子に対して行う性的虐待は、境界線を越えてしまった一例です。
自分の性加害を他人に言う人はいませんね。
さて、教員も児童生徒に対して恋愛感情・性的感情を抱いてしまう事はあるはずです。何か魅力を感じてしまうことも普通にあるでしょう。
こちらは、人間だから当然みたいな俗説的な話ではありません。
臨床心理学でいう所の、精神分析の分野できちんと説明できるのです。
教員と児童生徒の間では、通常よりも、恋愛感情・性的感情を抱きやすい条件が多く整っています。
そして、教員採用試験の勉強の一環として、このことについては学んでいます。でも、言葉を知っただけの勉強にしかなっていないので、教育実践にはつなげられないのです。
しかも、教員採用試験では教育心理分野の配点は低く、捨てても大して問題にならないので、より一層勉強しないということになります。
ただし、教員になったからには絶対に学んでいる事になっています。
法律と一緒です。知らないでは済まされません。
ではその言葉とは何か。「転移」です。
一度学んで、教員として採用されて「学びをやめた教員」が「性加害の温床となり得る意見」を正当化しています。
4.転移と恋愛感情・性的感情について
教員は児童生徒の悩みを聞きます。
勉強や進路、友人関係、恋愛関係、家族、部活動、習い事、登下校等、多岐に亘る悩みを聞きます。
そうすると、児童生徒は「この先生は私のことを分かってくれる人」と考え始めます。「その教員がどんな人間なのかもわかっていないのに」です。
そして、悩みだけでなく、普段の何気ない接触もあります。
そうして徐々に関係性が強くなっていきます。
自分を否定しない先生、いつも話を聞いてくれる先生、親身な感じがする先生、頼れる先生、信頼してくれる先生、そういったイメージがふくらんでいきます。
・イメージでしかないのに
・その教員がどんな人間かも知らないのに
・その教員は仕事としてやっているにすぎないのに
好きになってしまうのです。
ちなみに、この転移というものは、非常に強力です。
見た目や年齢は一切考慮されなくなります。
信じられないかもしれませんが、どれだけ容姿が劣っていようが、不健康であろうが、年齢がいってようが、まるで関係ないのです。
そのような感情を向けられた時、「転移」について知らなくても、専門職として教員を続けようとしている教員であれば、「自分の仕事にとってメリットはひとつもない」ということが頭に浮かぶはずです。むしろ、デメリットが多すぎてとても困るはずです。「そんなつもりじゃなかった」と思うことができるはずです。
さらに、このような転移を起こしやすい児童生徒は、何らかの心理的課題を抱えている場合があります。ここでさらに悪循環を起こす要因にも目を向ける必要があります。それは、「心理的課題を抱えた人は魅力的に見える場合がある」からです。
子どもに限らず、大人でもそうです。何か課題を抱えた人は、それを解消したいがために、自分を魅力的に見せたり、デートに誘ってみたり、「私の事をどう思っているの」と聞いてきたりします。子どもであれば、なおさら控えめに出してきます。ただし、見た目以上に激しい気持ちが潜んでいるのです。
このようなことですので、教員が児童生徒に対して恋愛感情・性的感情を抱いてしまう事は十分にあり得るし、抱いてしまったら、その気持ちをどのように仕事に結びつけるかについて考えるべきです。
5.転移に引きずられる教員
転移によって恋愛感情のような「勘違い」を向けられた教員は、そういったものに巻き込まれることが多くあります。
教員も児童生徒と同様に「相手のことをよくわかってもいないのに」好きになってしまうということです。
しかも、恋愛感情が冷めるのは5年くらいかかることがありますので、在籍中の児童生徒に対する恋愛感情は継続しやすいです。
一生一緒にいるということは、相手の事を好きかどうかではなく、相手の事を尊敬できるかどうかであって、つまり、相手の事が良く分かっている必要があるわけです。
教員が児童生徒に対して、良い部分も悪い部分もひっくるめて理解し、なおかつ、尊敬できる、そんなことは、普通、なかなか起こりません。
尊敬というものも、自分の生き方における見本や目標のようなものです。そうだとすると、そもそも「自分の生き方」について自覚的であることも求められます。「なんのために生きているのか」について回答するための軸足を見つけられている人はそう多くはないはずです。
・その人が5000万円の借金を背負ってしまったときに、それを一緒に背負ってでも、その人とともに生きたいと思えますか。
・その人が突然認知症になって別人になってしまったとしても、その人といることがあなたにとって豊かな人生になり得ますか。
・恋愛感情を超えて、恋愛行為にまで及ぶと言う事はどういうことか、あらゆる想定をするだけの知識、経験、周囲の協力がありますか。
6.教員の恋愛行為は保護者にとって恐怖でしかない
未熟な教員にはこの見出しを読んでしっかり考えて欲しいものです。
保護者にとって子どもとは、自分が何回死んででも守りたい存在です。
子どもに起こる全ての不幸を自分の身に引き受けたいと思っています。
すでに起きている不幸は全て自分の責任であると考えています。
自分の子どもがありのままでいられることを人生の第一目標としています。
自分の子どもには健康で安全なくらしをして欲しいと、全ての神仏を拝み倒してでも足りないくらい本気で考えています。
自分と子どもの区別すら分からなくなるのです。
(※そうできない保護者を否定しているわけではありません。そうしたくてもできない気持ちも私は何度も聴いてきました。)
保護者にとっては、過保護だとか、そんなものは至極どうでもいいのです。むしろ過保護になりすぎないために、甚大な努力をしている可能性すらあります。
そのような保護者にとって、教員が自分の子どもと恋愛行為をしているという状況は、単に恐怖でしかありえません。ごく稀なケースを除いて、理解してもらえることはありません。
そして、一般人がごくまれなケースに該当する事はありません。
7.ミステリアスという言葉の象徴
転移についてよくわからない人は、「私はミステリアスな人が好きなんだよね」というセリフを児童生徒が言っている場面を想像して下さい。
横文字で書かれているとかっこいいかもしれませんが、単に「よくわからないひとが好き」と言っているわけです。普通に心配になりませんか?
「SNSで何かあったのではないか」とか思いますよね。
でも、その相手が教員である自分だったらどうでしょうか。
心配する気持ちが嬉しい気落ちに変わりませんか?
それで普通です。
だからこそ、教育という専門性の高い仕事をしていくにあたって「自分の心を鍛える」必要があります。
心配する自分を消さないでください。
「相手が自分だったら心配する必要はない」という理屈は、どこにも通用しません。自己理解が浅い証拠であり、危険な発想です。
自分が相手を取り返しのつかないほど不幸にする可能性、自分が取り返しのつかない不幸になる可能性を考えて欲しいです。
児童生徒を対象にした教員の恋愛行為は、児童生徒を破滅に追い込む可能性があります。教員も子どもも何らかのレッテルを一生きひずってしまう可能性もあります。
恋愛感情を抱いた時、抱かれたとき、そこで何が起きているのか、臨床心理学的に考える事が難しくても、教育学的に考えられる教員が専門家です。
教育とは何であり、何ではないのか。
一生涯研鑽することが絶対に重要です。
下手な理屈ではなく、知識で理解できると良いなと思います。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。