おばーちゃんの誕生日の謎①
父方の祖母は、私からするとザ・昭和の母でした。
前回母方の祖母の話はこちらに書いたので
今回は父方の祖母の話を。(以下、祖母とします)
父方の祖父母は南の島の北部のさらに離島出身。
第二次世界大戦終戦くらいに本島に来たと思われる。
祖母は面倒見が良く、料理を作るのが好き。
背は小さく横には大きく。声も大きく大笑い。私の遺伝子はここか(上の行除く)
人と集まるのも好きだったようで幼少期は祖父母の家に行くと誰かしら親戚が訪ねて来ていたり、友人が来ていたりしていた。
令和の今では信じられないが、正月には祖父の会社の部下が年始の挨拶に訪れるような、来客の多い家だった。
祖母はそんな来客たちを嫌な顔せず得意の料理を大盤振る舞い・・・・
していたそうだが、その下には伯母やうちの母がいた。当然めちゃくちゃ働かされていたため、うちの母は盆暮正月が終わると寝込んだ。
(嫁入りが平成の終わりの方で良かった、とは母には言えない)
家に遊びに行くとあれを食べなさいこれを食べなさい・・・・
これを方言で【かめーかめー攻撃=食べなさい食べなさい攻撃】という。
どんなこと言われたかなんてもう覚えていないけど、
祖父と同様歯に物着せぬ言いようと余計な一言の多さ。
面倒見が良いと言えば長所だが、私はどちらかというと【そんなに構ってほしい子供】ではなかったため幼少期はこの祖母のことはあまり得意ではなかった。
おばあちゃんごめんよ。
でも私はこの祖母のことを尊敬している。
私の曽祖母、つまり祖母にとっての姑とずっと同居して、曽祖母がいよいよ入院して最期を迎えるまでずっと寝たきりの曽祖母の面倒を見ていた。
曽祖母も祖母も気の強い人だったから良く大声で喧嘩していたけれど。
そしてそれは方言であり日本語ではない。
もはや何を言っているのか子供の私にわかろうはずがなかった。
そして私が20代後半になる頃だっただろうか。
祖父がボケてしまった。
成人してたまにしか会うこともしなかったけれど、おおらかで気のいい祖父。
ゆっくりと私を忘れ、夫になる人を紹介した時は
『おお!私の名前と同じだな!いい名前だな!』と自分と同じ夫の名を絶賛。
結婚式にも参列してくれて同じくだりを式場で披露し、夫とたくさん握手をしていた。
その頃にはもうだいぶ進行していたはずだ。
そしてコロナが世界を覆っている間、祖母の家族は懸命に家で認知症の祖父を介護した。
私は自分が育児で大変だったのもあって全然介護には関わっていないのだが
聞いた話によると排泄の問題や徘徊などもあったのだから、同居していた祖母や伯母の苦労たるや計り知れない。
祖母はこの祖父のことも、何回か施設に入る話は浮上したらしいが結局家で看取ったのだ。
祖父の訃報を聞いて斎場まで会いに行った時、祖父の死を悲しむのはもちろんだが私は祖母が心配だった。
私に『おじいちゃんは逝ってしまったよ』と言った時、
私は祖母のために泣きたくなった。
おばあちゃん、大変だったね。
全然会いに行けなくてごめんね。
おばあちゃんは大丈夫なの、ちゃんと寝てるの、ご飯食べてるの・・・
『うん、おばあちゃんは大丈夫よ』
祖母のまあるく少し小さくなった背中を撫でて、少し泣いた。
私は二人の子供に恵まれ、人の面倒を見るということの大変さを痛感して祖母の凄さを思い知ったのだ。
そして祖母はもともと心臓が悪く、祖父を看取って4ヶ月後に一生を閉じた。
まさかの遠く離れた私の母方の祖父と同じ日に。
というわけで命日が両家で重なってしまい、うちの母を大いに悩ませることとなったのであった。
書き出したら結構長くなってしまいました・・・・
でも削るのもちょっと切ないので、誕生日の謎は次回まで続けさせていただきたいと思います。
すみません!!!
今日も読みに来てくださってありがとうございます。
あなたのおばあさんないし大切な人が今日も元気でありますように🍀
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