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善意の受け取り方

満席の新幹線の連結スペースにぽつんと立っていたら、お手洗いから出てきた男性に「ひとりですか?」と声をかけられた。こんなところでもナンパか、と思って目を合わせないでいると「僕、次で降りるので席譲ります」と。

申し訳なさと、恥ずかしさと、なんだかよく分からないショックで顔が熱くなった。慌ててお礼を言って頭を下げる。

「ひとりですか?」から始まる声かけで何度も嫌な思いをしてきた。値踏みする目で全身を舐め、薄っぺらい笑顔で行手を阻み、断ると舌打ちをされる。何度も嫌な思いをしてきた。

「すみません、困っていて、道を教えてくれませんか?」と声をかけられ立ち止まると、ほんの目と鼻の先のショッピングモールの場所を聞かれたこともある。
Googleマップを見れば、と思ったけれど、もしかしたら充電が切れてしまったのかもしれない。案内板を見れば、とも思ったけれど、もしかしたら視力が低いのかもしれない。誰にだって他人に見えない事情はあるものだから。
丁寧に道を説明し、最後に「大丈夫そうですか?」と問うと「お姉さん優しいですね、実は顔が好みだなと思って話しかけたんですよ。連絡先交換しませんか?」と。

人の善意を、なんだと思っているのか。

怒りと、悔しさと、情けなさでごった返した気持ちを抱えてその場を立ち去った。足がもつれそうになる。ヒールの音が高く鳴る。

そういうことが何度かあって、いつしか、見知らぬ人に声をかけられたら反射的に眉を顰めるようになった。なってしまった。
東京の街には触れなくてもいい悪意がごろごろ転がっている。

人は、悪意に触れ続けると、善意を上手に受け取れなくなるのかもしれない。
さっき感じた「なんだかよく分からないショック」の正体はきっとこれだ。
わたしは、差し出された善意を善意のまま受け取ることができなくなってしまった。歪んだ目で見て眉を顰めて、悪意を投げかけていたのはわたしのほうだったかもしれない。そんな自分にショックを受けたのだ。

悪意を悪意と疑わず受け取って無防備なまま擦り減るのと、疑心暗鬼に善意を突っぱねてそんな自分に落ち込むのと、どちらがより傷つくだろうか。どちらの傷がより痛いだろうか。

譲って頂いた席で新幹線に揺られながらそんなことを考えていたら、高校生のころ好きだったGReeeeNの歌詞を思い出した。

傷ついたって笑い飛ばして、傷つけるより全然いいね

どちらがより傷つくか、よりも、どちらの傷なら愛せるか、の方が大切なのかもしれない。GReeeeNが価値観のほとんどだった青い時代を思い出して、少しやさしい気持ちになれた。

さっきは自分の勘違いに焦ってしまって、席を譲ってくれた男性に「ありがとうございます」とぺこぺこ繰り返すことしかできなかった。
「ごめんなさい、ナンパと勘違いして嫌な態度とってしまいました。譲ってくれてありがとうございます!」
ってちゃんと言えたらよかったな。

まだまだだ。
わたしはどういう人になりたいかな、世界をどう受け取りたいかな。

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