受け入れることが最大の愛情じゃないのか
※完全なる独り言なので、生死に関する意見を見たくない人は控えてください
命に関するニュースが流れると
「何があっても生きないと」
「生きてさえいれば幸せになれる」
「今日という一日は誰かが生きたかった明日だから大切に生きよう」
…っていう意見が出るけど、
私は、自身がいつ死ぬかということは
その人自身の問題で
誰かの命と比べるものでも
何においても絶対に優先しないといけないものじゃないと思う。
生きることがどうしたって辛い人もいれば
ただめんどくさい人だっている。
それは個人の価値観でしかなく、この世からいなくなることが本人にとっては最善の策だってこともあるだろう。
生きてさえいれば幸せになれるなんて、全員にあてはまることじゃない。
自分の人生は自分のものであるなら、いつを幕引きにするかも自分で決めてもいいはず。
人は一人ひとり違うから、人生や生きることをどう感じるかは本人次第。
自分の為に生きたい人は生きればいいし、
誰かのために死ねないと思う人は、それが結局は自分のためにやっていることだってことを理解しながら生きればいい。
そして、もう生きていたくないひとは自分でそのゴールを決めるのだっていいと思う。
そもそも人は自分の意志で生まれることを選んできたわけじゃない
なのに、自らゴールを決めることがどうしてそんなにダメなのか
どうしたって、生きづらい人はいるのに。
みんながみんな、それを乗り越えられるわけでもない。
私は他者に、生きることやそれをやめることに関して
何も進言はできない。
だってその人の生に、責任のとりようなんてないから。
できることは、受け入れることだけ。
結局はなんだってそうじゃないのかな。
それぞれの決断に対して他者ができるのは、受け入れることことだけ。
でもそれが、最大の愛情だと思う。
生物としてのホモサピエンスは、子孫繁栄が最大の目的だから、死を絶対的に避けることがDNAのなかに組み込まれているんだろう
でも人間は、もはや自分で思考することができる。
種族としての目的を第一に考えるんじゃなくて
自分の幸せを第一に考えたっていいじゃないか。
誰に何を言われたって、誰が傍にいたって
それが生きる理由にならないことはあるよ。
そういうことじゃないんだよ
周りの人を愛する気持ちと、自分の生きる意欲はまた別の問題で、
死ぬことが唯一の安らぎになる場合だってあるんだよ
だから逆に言うと、亡くなった人を愛していた周りの人は
自分を責めるのをやめてほしい。
人には、他者が救える問題とそうでないものとがある。
あなたは、自分にできることを全うしていた。
誰かがどれだけ愛しても、それだけで生きれる人とそうじゃない人はいる。
あなたが生きることを大切に思うなら、どうか、あなたの価値観で人生を全うしてほしい
大好きだった人にもう会えなくなる悲しみはどうすることも出来ないけど、その悲しみによってあなたが苦しめられる時間が、すこしでも少ない物でありますように。
そして人々が少しでも自分の人生を主役として生きることができますように。
ただ生きていれば幸せなんてことはなくて、
やっぱり人生は、善く生きてこそだと思う
そんな風にするにはどうすればいいのかを、自分目線で、そして他者への思いやりをもって考えていきたいな
今までお疲れ様でした
ここまで頑張って生きてきた自分はすごい
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