よねのセリフに可哀想な大便が昇華する
息子の付き添い登校をしていた頃に、近所の年配の方から、どうして班登校しないのかと聞かれたことがあった。息子は支援級に在籍していてそこでは親が付き添うのは必須なので、と伝えると
「そんなところに入れて可哀想に」
と返ってきた。
息子の世話を大変だと思ったことは何億回とあったけど、それは息子が可哀想という理由にはならないと思っていた。不運だなと思ったことはあったけど、それは可哀想な子とは違うと思っていた。
言われた言葉が広がっていって、これまでの道のりが「可哀想の色」に塗り替えられていくようだった。
言葉は物のように形としては残らないし、その場で消えてなくなってしまう。けれども自分を奮い立たせたり、大きな気づきに出会えたり、衝撃を受ける一言によって、良くも悪くも自分の内に浸透する。
息子が可哀想な子だと言われたときから、言葉の持つ強さによって「うちの息子は可哀想らしい」という他人の作ったイメージを背負い込んでしまっていた。
先日、撮り溜めた録画をイッキ見した。
「虎に翼」のよねのセリフが心に波打ち、大声を上げそうになった。
長年居座っていた「可哀想」という厄介な大便が、よねのセリフと共にスルスルと腸を伝い排出されて、昇華されていったのだった。
障害のことをよく知らない親元に産まれたこの子は、不幸だと思っていた。どうやって育てていけばいいのか分からずに毎日が手探りで、学校のこと将来のこと、少し進むと何かしら課題が出てきては悩みの種になっている。
障害の診断をされたときは何も分からず両頬に涙を流したけれど、いまはどんなに悩んでも泣いたりはしない。それは辛くないというわけじゃなくて、苦しくないわけでもない。「可哀想」という見下した言葉にどうってことないふりは出来ても、心はぐちゃぐちゃに掻き乱されてしまうのは今でも同じ。それを内にとどめてしまい、時々脳みそが掘り起こしてくるものだから溜息をついている。困ったものだ。
人はそんなに強くはない。けれども弱いままでもないのだと思う。棘のある言葉はそこら辺にゴロゴロあって、わたしはよくそれに躓いたり転んだりしている。それを今回流し去ってくれたのも、言葉の持つ力だった。それは自分が勝手に思い込んだ「不幸」も一緒に、下水道へと流してくれた。
可哀想でも不幸でも弱いわけでもないのなら、誤魔化しながらでもいいのだと思う。大便の溜まりやすいこの社会を、なんとかなると信じて渡っていきたい。