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さようなら、類友のママ友
息子が未就学児の年長さんだったときに、「この人なら心を開いてもいい」と思える類友に出会った。その人は話し方が穏やかで、構えなくても喋りやすくて、全然気取っていない人だった。そしてそのママの子も、息子と同じく発達に障害を持っていた。
これはきっとそうだという、閃きみたいな自信があって、一瞬のうちに惹きつけられた。同じ匂いがするというのはこのこと。視線を外すことができなかった。その子が猛ダッシュでわたしの脇を横切る背後にはピッタリ張り付くママがいて、子供が右に行けば右へ追いかけ、曲がって走れば同じように曲がって追いかけていた。まるでトムとジェリーだった。
2人の様子に目を奪われていたら、自分の子を見失った。どこに行っただろうと手前の部屋に首を伸ばして覗こうとすると、一番奥の部屋から飛び出してきた。そのまま息子は突っ走り、ホールへと入っていって、そこでやっと足が止まった。足元には大きいのや小さいの、それぞれサイズがバラバラの、布でできたボールがあった。そのボールでちょうど遊びだしたとき、さっきの親子がやってきた。そしてその子もまた、ボールを手に持ち遊びだした。ママは肩で息をしながら止まって、そしてわたしと顔を見合わせた。どちらからともなく苦笑い。初対面のはずなのに「お疲れ様です」と声をかけていた。
それが沙耶さんとの出会いだった。
再び沙耶さん親子に会ったとき、ラインの連絡先を交換した。息子と競えるレベルの、止まれない多動突出タイプに出会えるなんてレアすぎる。これは奇跡に近かった。
障害があると聞くだけで、赤の他人だろうとわたしの中では「仲間」になった。そのうえ多動があると聞いたらもう、家族みたいな感覚だった。
聞くところによると沙耶さんの子とうちの息子は同級生で、来年には2人揃って小学生になる。互いに発達障害の診断を受けてはいたが、沙耶さんの子は知能指数が高いらしく就学先に頭を抱えていた。学区の関係もあって同じ学校に通うことはなさそうだったけど、それでも彼女と子供の悩みを話せる時間は幸せだった。
時々、居合わせた健常児のママと話すこともあったのだけど、わたしが話すと時空が歪んで空気が凍る。聞き役に徹するようになったところで、相槌を打つところが見当たらなかった。息子と大して変わらない年齢の子のママなのに、どうやっても話が合わなかった。自分が次元の違うママ業らしいと察したときは、不平不満が止まらなかった。まだ箸が使えないとかなんとかで、大変だと言うその相手は別に悪くはないんだけど、「こっちの方が百倍大変ですけどね」と、しょうもない育児マウントを取りそうになって、崖っぷちで堪えていた。ここはひとつ愛らしい悩みを聞くしかないと、うっすら愛想笑いを浮かべてみても、当たり障りのない返事さえ難しい。これが地球人の育児の悩みなのかと圧倒された。
それだからなのか、自分の思っていることを思った通りに話せる沙耶さんといるときは、忖度なしで楽しかった。成長曲線とは掛け離れた悩みでも、嫌厭しなかったしされなかった。死なせないように生かす育児は多動育児なら必須の必須。冷や汗なくしては語れないのだ。そうそうそう、と言いたくなることばかり。勇気づけられた。異次元同士の悩みを沙耶さんと2人で分け合っていた。
けれどその日またねと言って別れてから、沙耶さんとの連絡は途絶えていた。
入学式が過ぎ、学校生活が始まった4月の終わり頃だったと思う。沙耶さんから電話がかかってきた。久しぶりに聞く声がなんだかくすぐったい。「元気?」と他愛もないことを話したあと、沙耶さんが聞いてきた。
「学校どこにしたの?」
学校名を言って、支援級に在籍していることを話した。いつだったか、うちは普通級は難しそうだと言ったから、気になっていたんだろうか。少し間があってから沙耶さんは言った。
「うちね普通級にしたんだよね。楽しく学校通ってる。ん、だからさ、連絡取り合うのはこれで終わりにしようよ。ね、元気でね」
そしてプッて切れた。スマホを見ると、ラインで繋がっていた沙耶さんが退出したという表示があった。沙耶さんとはそれっきりになった。
コロナ禍になり人恋しくなってSNSを始めた。わたしは主にTwitterを閲覧していて、発達障害のことを話題にする投稿を読んでいた。始めてから少し経った頃に、気になる文章が目についた。子供が発達障害だというその人は、子を普通級に入れたくて療育に通わせたけれどIQを伸ばせず、支援級に入れるしかなかったと嘆いていた。
どういうことだろう
普通級に入れるための療育って何?
それを専門にしている療育があるらしく、そんな世界があるのかと怖くなった。投稿者もそういった類いの「普通級を目指す療育」に通ったらしい。意味がわからない。我が家は息子が2歳のときから療育機関に通っていたけど、そんな療育には行ったことがない。
支援級に入れば何でも解決できるわけでもない。それでも、明らかに支援級適応の子が普通級で生きていくのは相当苦しいだろう。「みんなと同じ」を手に入れたところで、その先には障害のない子に自分を合わせていく過剰適応が待っている。自己肯定感が下がるのは、それが引き金になるからだと聞いたりもする。それでも「普通」を選ぶのは、支援級のイメージの悪さなのか、普通以外の道はお先真っ暗みたいな考えなのか。そっちにいったら戻れなくなるよと言われたこともあったっけ。
「だって普通級の方がいいでしょう」
その人はそういい残し、去っていった。
わたしはそのやり取りに、沙耶さんを思い出していた。
子供の進路に悩んだ末、普通級を選んだ沙耶さん。わざわざ電話してきて決別宣言する人は稀だと思う。普段の生活でバッタリ会うことはなかったし、学校関係でも交わらない。嫌ならラインをブロックするという手もあったはず。例え偶然道で会ったとしても、無視すればいいだけのこと。だけど沙耶さんはそうしなかった。普通級を選択したことで、きっちりと関係を清算してきた。
こちらの近況を確認する電話がきたときの、関係を閉ざすトークには口を挟む隙がなかった。後味の悪い会話をするのは、沙耶さんだって楽しくなかっただろう。その労力をかけてまで、わたしとの繋がりを絶つ必要があった。……わたしだって人間だから、傷つかなかったと言えば嘘だけど、それでも沙耶さんを責める気にはなれなかった。
わたしと沙耶さんの付き合いは長くはなかった。けれど相手を気遣える性格で、子供に溢れんばかりの愛情をかけられる人だと感じていた。子供のことを思い、考えを巡らせたのだろう。わたしという支援級のママとの繋がりが周りに知れて、万が一にも子供に予期せぬ憶測が及んだりする影響を恐れたのだとしたら、それは苦肉の策だったと思うしかなかった。息子が支援級に在籍して感じたことだけど「支援級の子」は、その人なりの想像で独り歩きしてしまう。そのうえ障害の特性も人それぞれに違うから、周りからは分かりにくい。学校の先生であっても支援級を具体的に説明できる人は多くない気がしている。「支援級は修行するところなんでしょう?」と、ある時普通級の子に言われたことがあって、それがクラス担任の説明だったと聞き驚いたことがあった。お坊さんみたいだなと、カラカラになった口の中で呟いていた。
どう捉えていいのか知らない人と、知っているけど隠したい人。この障害は個人として向き合わないと外からは捉えられないところがあるし、診断があってもイメージが先行するせいで周りを気にして大っぴらにできないことも多い。耳に入ってくる周りの声や噂はやたら大きく聞こえてきて、深夜に耳元を飛び回る虫に似て鬱陶しい。わたしとの仲を絶った沙耶さんもそうだったのか。あの絶交も、「支援級の子」という良からぬ戯言に耐えきれなくなった末のことか。それももう、確かめる術はないのだけれど。
「普通級」に過剰適応していたのは、子供よりも沙耶さんの方だったのかなという思いもよぎる。そうしなければやっていけない都合もあったんだろう。
それでもあの日出会った沙耶さんのことが、時々ふっと香ってきては多動談義に花を咲かせたことを懐かしんでいる。駆け回る沙耶さんと子供を見て親近感が沸いたのは必然だった。無意識のうちに自分を沙耶さん親子に重ねていた。とても他人とは思えなかった。
子供がいたから仲良くなり、子供がいたから離れていった。そういう仲もあるんだろう。あの頃のわたしは荒んでいてどうしようもなかった。その殺伐とした心を軽くしてくれたのは、間違いなく彼女だった。絡み合った事情のなかで、切なくも離れていくしかないのなら、どうか遠い記憶に咲き誇っていて優しい人。もう二度と会うことはない、わたしの類友。
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