野草食日記 275 父と明日葉の想い出
初めて自分で摘んだ野草を食べた記憶は、昭和40年代半ば、千葉にできた新興の公団住宅に住んでいた頃のことです。
地域内に2つの小学校を抱えるとても大きい団地は、建物と建物の間に遊歩道や公園などが美しく整備され、当時の若い夫婦や子育て世代が憧れるような、そんな住宅街だったのではないかと思います。
《写真》
正面左側が当時住んでいた建物。
外装がリノベーションされて新しい雰囲気になってます。
ネット情報で知りましたが、当時日本一の大きさの公団だったそう。
近代的で暮らしやすい街づくりがされたその外周には、意外にも自然が沢山残っている場所でもありました。
通っていた小学校の裏には林が、近くには川も流れていました。
風の日には土埃の舞う街外れの未舗装の道。
その先には父が家庭菜園を借りていて、トマトを収穫していた記憶がうっすらと残っています。
ある休日、母や弟も一緒に林に出かけ、つくしを採り、川辺で芹を摘みました。
芹の味は全く覚えていませんが、その時母が作ってくれたつくしの佃煮は幼い私にはとても印象深い出来事でした。
自然の中で、自分で採ったものを料理として味わうことができる。
それが身体の中に染みるような体験となったのです。
小学4年の時、横須賀市の山の上にある住宅地へ引越をしました。
家の近くに子供達が三角公園と呼んでいる遊び場があり、そこで友達と遊んでいた私は園内につくしが生えているのを見つけました。
嬉しくなってあるだけ摘んで家へ持ち帰り、息を切らしながら「佃煮を作って!」と母に頼んだものでした。
その横須賀の家のすぐ裏に谷戸へ下りる山道があり、やはり休日に家族と一緒によく歩きました。
道沿いの斜面、あちらこちらに手のひらを広げた様な大きくしっかりした葉っぱが生えていて、ごく自然にそれが明日葉ということを父から知らされ、山歩きの日の夕飯にはお浸しになった明日葉が食卓に並びました。
鰹節と醤油をかけたシンプルなお浸し。
私も、普段は野菜嫌いな弟も明日葉が好きでした。
うちの家族にとっては当たり前だった明日葉。
八百屋であまり見かけることがない、割とレアな野菜であることに気づいたのは大人になってからのことです。
湘南に住み始めて、葉山の農家さんに自生しているものを摘ませてもらったり、鎌倉へ越してきてからは、ご近所さんが庭に植えているのを珍しいなと思っている自分がいました。
その明日葉を株分けしてもらって、今は自宅の庭でその香りを味わえる様にもなっています。
父が亡くなってから10年以上も経ってから、当時30代半ばだった父が何故、明日葉なんて知っていたんだろう?!と不思議に思い、電話で母に尋ねたことがありました。
「お父さんはね、製薬会社に勤めていた時に大島に営業に行っていたことがあってね。そこで明日葉のことを知ったみたい。私はあんまり好きじゃなかったんだけど。」
子供達には好印象で受け入れられていた野草が、実は料理していた母が好きじゃなかった事実に苦笑しつつも、若き日の父がどんな風に大島で明日葉に出会ったのかを想像して、懐かしいような、楽しいような気持ちになったことでした。