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瞑想と寺カフェ続いてます

毎週火曜日の朝のGuided Meditationと第2、第4金曜日の寺カフェ、続いています。お寺を味わういいチャンス。

火曜日の瞑想の後、お掃除をすることにした。Temple morningのパクリなのだけれど、今のところ一人。だれかに声をかける勇気がなく、独りで黙々とやるのが気楽というのもあり、小一時間、須弥壇の上の阿弥陀像周りとかをSwifferとかでパタパタやり、ハワイにあるんだ〜と感心した畳用の箒で黒光りする壇を掃いている。

お掃除しながら、蛾の死骸に出会って生きて死ぬのに理由とか、ないのだよなぁと思ったり、日系移民の人々が代々、お掃除してきたんだよなぁとパールハーバーのことを思ったりしてしみじみする。そして、このセッティングの大事さを思う。

瞑想するなら、別に家でもいいわけで。だけどお寺というセッティングで、周りで一緒に坐っている人がいると、なんとなく長く坐れる。さらに気が散らず、深く坐れる。このセッティングやあれこれのルールはお坊さんが悟り(というのを目指しているのなら)に至りやすいものなのだろうと思う。

昔、カウンセリングについての講習をいろんな学校を訪問してはしていた頃、教育相談担当の先生から「いくらカウンセリングを学んでも、なかなか子どもに共感できないんです」と言われることがとても多かった。けれども、カウンセラーは例えば、クライエントの日常は見えていないなど、共感的な対応がしやすいセッティングで仕事をしているのだ。子どもたちの日常や人間関係がとてもよく見えている、毎日、顔を見る先生という役割は心理的にもとても近く、カウンセラー役割を取るのはむちゃむちゃ難しいと思う。セッティングが違うのだ。カウンセラーはカウンセリングがしやすいセッティングで動いている。

そして相変わらず、お寺のコモン、公共性についてあれこれ思っています。お寺、どれくらいオープンにして、どれくらいバウンダリーを作ればいいんだろう、と。無断駐車の車や犬のお散歩のオトシモノなどに出会っては、ゲートを閉めるべきか、その開け閉めはだれがするのかというボードでの議論は続くのでした。

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