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思い出
母が、少し前に亡くなった彼女の友人の話をしていた。その思い出は愛情深い言葉によって美しく飾られている。そんな時に私はどうしても「語る」ということについて考えてしまう。
母は友人の思い出を自分の言葉で語る。そのたくさんの言葉から得られる上澄み液のような「意味や価値」を、どうにかして掴もうとしているようだった。わたしもそれが欲しいと思った。
その言葉が忠実に過去を語ることなんてできなくても、
その語りがどれだけ本当の友人の生とかけ離れてしまったとしても、それをやめずにはいられない。なぜなら、それだけが彼女の思い出を忘れないでいる手段だから。それだけが残された人の生きていく手段だから。
でも、と思う。
残された人が過去を美しく語ろうとする時、気づかないうちに「美しくないその人の記憶」を否定しているのかもしれない。
バラバラの、断片的な記憶の寄せ集めから綺麗なものだけを拾ってきて、
それをまた言葉で切り取って、愛情という巧妙な力で繋ぎ合わせようとしてしまうのかもしれないと、どうしても思ってしまう。
そしてその繋ぎ合わせ方は、全くわたしたちの勝手。いや、それはもう無意識にやっていることなのだろう。
それでもそんな言葉によって語ることを諦めきれない。
言葉は、伝えようとするものの本当の姿を切り取って形を変えることでしかその機能を果たせない。
なら、せめて過去を1つの形に決めてしまわないために、語り続けなければいけないのだと思う。
振り返ってみると、母の回想は語る度に少し変化をしている。それが「本当の過去」に近づいているのか、遠ざかるものなのかは分からない。でもそれはやっぱり、どこまでいっても思い出が言葉によって語り尽くせないものだということなんだ。
何度も何度も思い出して、語り続けることが残された人のできる唯一のことなのかな。
だから私は、何度でもその母の話に耳を傾けよう。語るものと語れないものとの間で揺れ動く母の言葉を聞こう。
私もそう語りたいし、語られたい。
私のことを語ってくれる人なんていないかもしれないけど(笑)
デスマス調が少し窮屈だったので変えてみた
次回からはもう少し短めにしてみようかと思う💦