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「詩は何からできているか」


生活のなかで言葉をつかっているとき、ふいにそのひと連なりが、まるで聖書の一句であるかのような、有意味性と象徴性を帯びることがある。

あくまでそれは会話の一部分であって、遊離して存在することも、紙上に書き留められることもない。

しかし、そのような言葉に出会ったとき「詩がそこに現前する」という事態に直面したような気持ちになる。


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「詩を書いています」と、自己紹介の際に言うことがある。

それはほとんど、「言葉になんらか意識を向けています」という自己主張でしかないのだが、そのように口にするとき、「詩は書かれる/書かれたものである」という私の意識が(あるいは私が他の人も共通で持っているであろうと思っている認識が)前提となっていることに気づく。

書きつけられたものが詩であるならば、詩の素材は、紙とインクであることになる。

おそらく私はこの意識を強く持っていて、詩に対してことさらその肉体性を求める傾向がある。

詩はできることなら紙とインクという肉をもって、本という身体に入って、詩集という個体になっていてほしい。

言葉はそれだけでは魂であり、私の意識から遊離してしまう恐れがあるので、出来る限り重たくなって、この世界にきちんと根を下ろしておいてほしい。

だから私は、自分が詩を書き且つ詩集をつくる人間であること、その詩の肉体性への介入を指して、「詩を書いています」と言うのだと思う。


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人と話すことがある。

人と話すことは、誰にでももちろんあることで、ことさら表明することではないかもしれない。

けれど、私のなかには、会話という物事について、「人に話す」位相と「人と話す」位相がある。
そしてほとんどの場合、(私はおしゃべりなので)私は私を巡る出来事や、私の内部の思考を「人に話す」。

そのような会話生活の中で、ときたま、「人と話すことがある」。


つい先日は、自分の働いているバーで「魂の対話」というべきものをおこなった。

それはまさに魂の対話というべきもの、魂の研鑽、磨かれて角が取れるような、わたし自身が再び形成され、新しくされるような経験。

人と話すことは、その人の内的な/外的な経験に対して、一度言葉という(ある程度)普遍的に通用する形をもたせ、共有することである。

その際、受け取り手は、はじめは言葉として相手の経験を受け取るが、その形を剥いでいくなかで、相手の経験を自身の経験として体験しなおすことができる。

このような作業を、もしかしたら解釈と呼ぶかもしれない。
解釈を経た語り手の経験は、受け取り手の経験となる際には全く別の出来事となって、また新たな言葉として紡がれるための貯蓄となる。


しかし中には、解釈を差し挟まない会話がある。

言葉という形をとった体験、情動、意志が、そのまま言葉から漂ってくるときがそうである。

その際言葉は、噛み砕かれることなく私の喉に直接流し込まれ、直接血管を走る酸素となって、わたしの魂を養う。



わたしがそのような言葉に出会うとき、わたしは詩の現前を、そこにみる。



私が詩として扱っているものとは似ても似つかないが、しかしそれは詩というほかなく、もはや言葉という殻を脱ぎ捨てて、空間をいう肉を着た詩の、新たな現前。

(それは私に体験されて、私が記すことで、見慣れた詩のていを成すだろう。)

しかし本当は、書き留められる以前からそれは詩として存在していて、人と人の間を渡すひとつの橋として存在している。

橋が石やコンクリートから成っているのではなく、渡るべき川と渡すべき岸からできていると考えるならば、詩も同様の仕方でできていると言えるかもしれない。

少なくとも私は、わたしの書く詩というものが、たくさんの生活のなかで生まれていることに、最近になって自覚的になった。



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「詩をたくさんたべる会」
10/25 19:00~23:00
Communicative Bar & Cafe HANABI
(高田馬場駅から徒歩5分)


詩を朗読したり、弾き語りをしたり、詩集の造りを楽しんだり。
秋の夜長に、お酒を飲みながら自由に詩を楽しむイベントをやります。


くいしんぼうに、詩を食べましょう。
お待ちしております。


七緒らいせ







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