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このままの自分を愛したいのに
収入をあげたい。恋人が欲しい。痩せたい。綺麗になりたい。やりがいのある仕事に就きたい。
自分の何かをアップデートしたいと頑張っているとき、ちょっと気持ちがいいときがある。
でもふっと立ち止まって現実に目をむけたとき、気分が急降下する。なんで自分はこの程度なんだろうって。
最近、いろいろなことにものすごいやる気があった。コロナの影響で会社が大きく変わろうとしていて、どんどん人が辞めていく中、この変革期こそ頑張らねばと考えた。収入をあげるために副業もやって、お金をはたいて新しい勉強も始めた。今までの自分では考えられない新しい趣味をみつけた。20代後半だからそろそろ結婚も考えねばと、婚活についても調べ始めたし、体力がないこととスタイルをよくしたいので筋トレも始めた。
ところがこの数日、どうにも辛い。なんのやる気も起きないし、ひどい頭痛がする。ただただ自分が手に入れてないものを並べて、手に入れたいものを数えて、どうして自分はこうなのか、と責めている。
ここまで、書いて分かった。以前書いた「モチベーションの暴走」と同じだ。会社だけじゃなくて、自分の人生でも同じように暴走してる。
自分磨き(見た目だけじゃなくて仕事含め生きること全般のアップデート)は素晴らしいけれど、無い物ねだりと表裏一体で、今の自分の否定にもなりえる。人生を楽しくするために手にしたいものなのに、手に入れようと頑張ってる時間も人生なのに、それが辛いなんてものすごい矛盾に感じる。甘いのだろうか。どうせ「ゆとり世代」だから、根性なしなんだろうか。過程すら楽しめるものだけ選ぶのは逃げなのか。
多少欠けててもこのままの自分を愛したい。
ちょっと脚が太くても
完璧な栄養バランスの食事がとれなくても
給料日前にお金がプラマイゼロになっても(余談ですが神業かと思えるほどきちんと使いきる。自慢にならんですが)
足に合うサイズの靴が一向に見つからなくても
恋人がいなくても
狭い部屋に住んでても
どっかの仏教の宗派が「足るを知る」って言ってた。どこで聞いた言葉かもう忘れたけれど、ずっと心に残っている。あれもこれもと求めず持っているものを見なさい、という意味だと解釈している(違ってたらすみません)。
誰も私の人生を生きられない。生きていくのは私だ。今の私も、未来の私も楽しく幸せであるほうがいい。今持っているものを愛して、現状に感謝して、その上で楽しいと思えることをやってたら、いつの間にか欲しかったものが手の中にあるような、手に入らなくてもそれはそれで笑っていられるような、そんな生き方はできないものでしょうか。